日本人が自民党だけを選び続けてきた2つの理由 田原総一朗が振り返る国民と自民党の関係
そこで、宮澤氏は、「押しつけられた洋服に身体を合わせるほうが安全だ」と考えたのだという。宮澤氏だけでなく、池田・佐藤両首相をはじめ、戦争を体験した自民党の幹部たちは、このように考えたようだ。
だから、吉田内閣の時代に、池田・宮澤の両氏が2度アメリカを訪問し、その時、「あのような憲法を押しつけられたら、日本はまともな軍隊を持てない。だから、日本の安全保障はアメリカが責任を持ってほしい」と要請したのだという。そして、アメリカは、その当時もその後も、日本が強い国になるのは困るから、その要請を快諾したということだ。
そのために、日本は戦争に巻き込まれることがなく、70年以上、平和を維持できた。そして野党もその点では異論はなく、だから自民党政権が長く続いたのである。
だが近年では、アメリカの経済が悪化して、アメリカが「パックス・アメリカーナ」を維持するのが難しくなり、日本の安全保障を、改めて考えざるを得なくなってきている。
もう1つの理由が、経済である。
日本は、惨憺たる敗北を招いた後、自民党政権の懸命な努力によって、池田首相時代から奇跡と称される高度経済成長を実現した。
もっとも、鉄道や道路網が太平洋側を偏重して建設され、しかも海路による輸出入は太平洋側が便利なために、企業も工場も太平洋側に林立して、太平洋側は過密、日本海側は過疎となり、太平洋側は地価が高騰し、そのうえ、深刻な公害に襲われた。
そのために、太平洋側の自治体では、選挙で野党が強くなり、いわゆる革新知事や革新市長が次々と登場することになった。
田中角栄が打ち出した「都市政策大綱」
そこで、当時幹事長であった田中角栄が、1967年に『中央公論』に、「自民党の反省」という論文を発表し、1968年に「都市政策大綱」なる構想を打ち出した。
日本列島全体を改造して、高能率で均衡のとれた、ひとつの広域都市圏に発展させるというのである。
そして田中は、「一日生活圏、一日経済圏、一日交通圏」という言葉を提唱した。この3つの条例が達成されれば、第2次、第3次産業を全国に配置することができる。過疎化に悩む、日本海側や内陸地域にも産業を配置することができて、過密・過疎の問題が解決することになる、と考えたのである。
そのために、北海道から九州まで新幹線を通し、全国に高速道路網を張り巡らせ、第2、第3の国際空港と、各地に地方空港を誘致し、4つの島をトンネルか橋で結ぶという方針を打ち出した。
この「大綱」は、自民党に常に批判的だった朝日新聞ですら、高く評価したのである。
その後、田中が首相になる直前に発表した『日本列島改造論』は、問題点もあったが、田中の構想が、過密・過疎を解消し、日本全体を発展させたことは間違いない。
第4四次中東戦争が起きなければ、田中内閣は長期間続いたはずである。
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