運行わずか1年半「幻のモノレール」の経営実態 設備に問題あったが計画・運営もずさんだった

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当時、日本ドリーム観光は資本金76億円、大阪の新歌舞伎座や千日デパートなどを傘下に持ち、日本一の規模の興行・娯楽会社になっていたが、内情を見ると松尾社長のワンマンによるずさんな経営が行われていた。総合観光企業への脱皮を急いだのか、奈良ドリームランドに40億円、横浜ドリームランドに75億円もの資本を投下したのに加え、神戸に同社初となる大型ホテル(神戸ニューポートホテル)の建設を同時に進めるなど、ばくちに近い巨額の投資を重ねていた。

開園後の横浜ドリームランドは天候不順と交通アクセスの不備から客足が鈍く、これが大きな要因となり日本ドリーム観光は間もなく無配に転落。業績の悪化に加え、株主総会では松尾社長が過去数年間の粉飾決算を認めるなど、危機的な経営状況に直面した。

ドリームランドモノレールの建設が進められていたのは、まさにこのような時期だったのである。前述した再三の路線変更や農地法無視といった事態は、用地費を抑えるために山林や畑に無理矢理モノレールを通そうとした結果だったのだろう。

製造側も「完成を焦る」事情が

一方、車両を製造した東芝側にも当時は焦らざるをえない事情があった。同社が奈良ドリームランドのモノレールを開業させたのは1961年7月であり、これは国内の跨座型(線路に跨がる方式)モノレールの第1号だった。つまり、東芝はライバルに先んじてモノレールに着目していたのである。

日立アルヴェーグ式を採用した名鉄モンキーパークモノレール線の車両(写真:hiro/PIXTA)

ただ、奈良ドリームランドのモノレールは「遊戯物」扱いだった。地方鉄道免許による路線としては、1962年3月に開業した日立の犬山遊園モノレール(名鉄モンキーパークモノレール線)に先を越されてしまい、自らも出資した日本エアウェイ開発のサフェージュ式は、三菱に主導権を握られた。さらに川崎航空機も1962年9月以降、同社岐阜製作所構内に試験線を設け、ロッキード式モノレールの実用化に向けた実験を開始しているような状況だった。

東芝としては、今後のモノレール受注を見据えて実績をつくっておきたいがために、多少の無理な要求を受け入れてでも工事を完成させたかったのであろう。

ドリームランドモノレールが、なぜ運行再開できなかったのかについても見ていこう。運休当初、ドリーム交通は「車体を軽いものに作りかえ、脚柱やケタの補修工事をしなければならず、工事に約1年はかかる」(1967年9月26日付朝日新聞)と、比較的早期の運行再開を見通していた。損害賠償金を原資に補修を行えば運行再開は可能と考えていたのだ。

ところが、これを阻んだのが長期化した裁判である。

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