運行わずか1年半「幻のモノレール」の経営実態 設備に問題あったが計画・運営もずさんだった
ドリームランドモノレール開業当日の様子を伝える書籍(『横浜の鉄道物語』長谷川弘和著)によると、開業予定日の朝、駅のシャッターは下りたままだった。駅員に理由を聞くと、「まだ認可されていない由で、認可があり次第開通する」(同上)との回答で、結局、初日にモノレールが走ったのは、わずか4時間くらいだったとのことである。
当初からこのような感じだったから、後から振り返れば開業後1年半で運休に追い込まれたのは、無理もないことだったのかもしれない。
運休に至った原因は、車両重量の過大であった。営業開始後、ゴムタイヤがたびたびパンクしたため、車両を計量してみると、営業許可申請時に3両固定編成で重量30トンの予定だったものが、実際には45トン以上にもなっていた。また、軌道桁のコンクリートにヘアークラックと呼ばれるひび割れが生じているのも発見された。こうした状況を危険と判断した陸運局の勧告により、1967年9月24日から「無期運休」となったのである。
車両にも問題はあったが…
東芝の言い分は、「最初、現在の路線の北側の平たん地を通る予定で設計したところ、その後コースが再三変って、千分の十(筆者注:100パーミルの誤り。1,000m走るごとに100m上る)という急こう配を持つ路線になったため、車両の強度を高くする必要から、車体が予定より重いものになった」(1967年9月26日付朝日新聞)、「安全のため連結器はじめ各部品をがんじょうにした。いわばていねいに作りすぎた結果重すぎるものになってしまったわけで、それほど重くなるとは思わなかった」(同日付読売新聞)というもので、過失を認めている。
なお、100パーミルの難所に対応するため、当初の設計よりモーターを大型に交換したのも重量増加の要因だった。
これだけを見れば、
着目すべきは、ドリーム交通の親会社だった日本ドリーム観光の企業体質および当時の財務状況である。
日本ドリーム観光の創業者である松尾国三は、九州の旅役者から身を起こし、興行師として名をはせ、日本ドリーム観光と雅叙園観光という2つの上場会社をつくり上げた立志伝中の人物である。
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