――政治の腐敗や忖度、そして若者の無関心、投票率の低さなど、この映画で描かれているルーマニアの現状が、どこか日本人にとっても他人ごとじゃないように感じたのですが、この映画がルーマニアで公開されたときはどのような反響があったのでしょうか。
映画が社会にどのような変化を及ぼしたのか、ということを説明するのは難しい。ただ何かが変わってきたなということは実感している。ルーマニアでも本当に多くの方に見ていただいた作品だった。権力を持つ者に対して唯一、対抗できるのが報道陣、プレスという存在で、そこは信頼しなくてはいけないのではないかと感じてもらえると思う。
特にルーマニアの司法システムは腐敗していて、まだまだ権力者の影響下にあるようなシステムになっている。そんな中では特にプレスの存在が非常に重要だし、映画の公開後、告発者の数が爆発的に増えた。公開前は、1日10人ぐらいだったのが、映画の公開後はその数が70人、80人、もしくは100人ぐらいになったりすることがあった。
映画は人に届くし、響く
――そういう話を聞くと、あらためて映画が持つ力強さを再確認したのでは?
確かにそういうふうに感じるところがある。映画は1時間半という上映時間の中でも人に届くし、響くものだ。そして自分の人生は自分自身のものであるということを改めて反芻する機会を与えてくれると思う。映画の経験を通して、その反芻は結構長いあいだ残るものだし、映画自体が私たちの中に長くとどまるという意味でも、映画はわたしたちを変える力を持っていると思う。
ただ、それがどのくらいか測る物差しはないし、説明するのは少し難しいと思う。映画というのはそれぞれ違った受け止め方をするので。
――映画を通じて、ジャーナリズムや市民は、何をするべきか、こういうことが必要なんじゃないかと感じたことはありますか。
まずジャーナリズムに関しては、やはりルールにのっとって仕事をすべきだと思う。まずはファクトを大事にし、そして情報を必ずチェックする。ルールというのも、ジャーナリズムという仕事に、その信念に忠実であり続けるために、何をしたらいいのかという問いかけなのかもしれない。
得られる情報が大きくなるにつれて、それに対する権力の壁というものも大きくなるわけだから。ルーマニアでは、今はそのジャーナリストが気に食わなくても、殺す必要はない。彼らの媒体を買収してしまえばいいと言われているぐらいですから。
――そういう意味ですごいなと思ったのが、その権力に切り込んでいくのが「ガゼタ・スポルトゥリロル」紙というスポーツ紙の記者だということですが、ルーマニアでは「ガゼタ・スポルトゥリロル」紙というのは、どういう位置づけの媒体なんですか。
いわゆるスポーツ紙だが、記者のカタリン・トロンタンさんは、もともと、調査報道に情熱を傾けている有名なジャーナリスト。ただ、それまでは調査報道の対象がスポーツ界で、スポーツ大臣2人を辞職に追い込んだり。あとは怪しい移籍をしたサッカー界のボスたちを告発したりする調査報道をしていた。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら