「ワクチン開発立役者」カリコ氏が逆境に勝てた訳 「研究は私の趣味」お金をそれ以外に使わなかった
誰かひとりでも研究に協力してほしい。彼女は、誰彼かまわず声をかけた。
「例えば、科学技術の会議に出席すると、隣に座った人に『何を研究しているんですか?』ってたずねるの。そしてこう言うのよ。『あら、もしかしたらこのRNA技術が使えるかもしれないわ。(RNAを)作ってあげるわよ』ってね。その研究内容が病気に関することであろうと、ハゲのことであろうと、何でもね(笑)」
キャンパス内でも、いろいろな人に会って援助を求めた。
「いろいろな講義に出て、隣に座った人に声をかけました。興味をもってくれる人もいて、具体的に会う日を決めようとすると、あとになって適当な言い訳をして断ってくる。カリコとはどんな人物かをやはり多少なりとも調べますよね。そこで学内での地位もない、研究費もない、学術出版もない、ということを知るからなんです」
「RNAハスラー」とまで呼ばれるように
くじけたり、傷ついたりしなかったのか。
「確かにそのときは傷ついたけれど、気にしないことにしました。そのことで自分がつくられていくわけではないですから」
「不安定な状況でいることは、悪いことばかりではない。その人の性格にもよりますが、人によってはつねに緊張状態を強いられるかもしれないし、あるいはそのことによって勇気づけられるかもしれない。私の場合は後者です。もし、安定した常勤の立場だったら、そこまで自分を追い込んで研究に没頭できなかったかもしれないですよね」
それでも、キャンパス内で会う人会う人に、自分がつくった「分子」を押し付けるようにして渡していった―その分子は、冷凍庫にしまい込まれて忘れ去られていったのだが――。この熱心さゆえ、のちにペンシルベニア大学内でカリコ氏は、RNAをごり押しする人、張り切っている人というので、「RNAハスラー」とまで呼ばれるようになった。当時、カリコ氏の教え子だったというワイルコーネル医科大学助教のデビッド・スケールズ氏は、こう振り返る。
「カリコ先生は、RNAの可能性について、とてつもない情熱をもっていた。彼女はRNAの伝道師であり、通訳者でもあった。私自身、いろいろな可能性について考えさせられた」
「ただ、あまりに理論だけが先行しすぎて、誰もこんなことをやっていなかったので、ついていけなかった部分もあったのだろう」(スケールズ氏)
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