鉄道の群雄割拠で発展、工業都市「四日市」の軌跡 産業を支えた国鉄・JR、旅客輸送は近鉄が圧倒

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四日市の重工業化はさまざまな要因によるものだが、その端緒となったのが川崎臨海部の埋立造成事業を手がけていた浅野総一郎が率いる東京湾埋立株式会社の進出だった。川崎臨海部の事業が終了に近づきつつあったため、次の目標として四日市に着目した。

JR四日市駅の東側は工場が立ち並ぶ工業地帯。写真の四日市港線末広橋梁は可動橋のため、普段は橋が跳ね上がったままになっている(筆者撮影)

四日市へ進出を考えた理由は、これまでのノウハウを生かせることも大きな要因だったが、浅野がセメント事業によって財を築いていたことが大きく起因している。四日市の近くには、セメントの原料となる石灰石を多く産出する藤原岳がある。浅野は同時期にセメントを運搬するために三岐鉄道にも出資していた。

民間資本により港湾整備や工業振興ができるということもあり、四日市政財界は浅野を歓迎した。浅野本人は直後に没するが、浅野財閥によって港湾・鉄道整備は進み、四日市の工業はさらに活発化していく。

私鉄の路線網が発達

前述したように三重県は多くの中小私鉄が群雄割拠する状態だったが、明治末から大阪電気軌道(大軌、現在の近鉄の前身)が伊勢神宮への参拝輸送の需要に着目し、三重県へ進出する機会を狙って中小私鉄を次々と合併していた。1927年には子会社の参宮急行電鉄(参急)を設立して、伊勢神宮の玄関となる宇治山田駅を開設している。

三重県の政財界は大軌グループの伊勢進出に戦々恐々としていた。四日市製紙で取締役、四日市銀行の頭取も務めるなど四日市財界の重鎮だった熊沢一衛は、業績不振だった四日市―津間の私鉄、伊勢鉄道の社長に就任して伊勢電気鉄道(伊勢電)と改称し、大軌に対抗する。

伊勢電は四日市鉄道や養老鉄道を系列に加え、さらに名古屋方面への延伸を計画した。しかし、大軌との争いに焦って政界工作をしかけたことが裏目に出て熊沢は逮捕される。これが引き金になり、熊沢は社長を辞任。主を失った伊勢電は1936年に参急と合併し、大軌系列に加わる。大軌グループはこうして三重県内の私鉄統合を進め、現在の近鉄路線網の基礎を築いた。戦後、近鉄は1965年に三重電気鉄道(現在の四日市あすなろう鉄道、近鉄志摩線などの前身)を合併し、県内の私鉄のほとんどが近鉄に統合された。

伊勢電が参急と合併した1936年、四日市市は港湾施設の完成を祝して「国産振興四日市大博覧会」を開催。工業製品の国産化奨励や貿易の促進といった目的を掲げた同博覧会の開催により、工業都市・四日市の名前は全国に知れ渡った。

同年には、日本板硝子の四日市工場が操業を開始。これを皮切りに重化学メーカーの工場が増えていくが、冒頭で触れたB6を自社の運搬用に導入した石原産業も、この時期に石原産業海運という子会社を設立して四日市へと進出している。

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