名古屋市長「メダル噛み」が余りにもタチが悪い訳 主役は選手、サービス精神でなくただの自己顕示欲

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そのおごりこそ、金メダルを噛むことと同じレベルで人々の怒りを誘った理由にほかなりません。形式上は“表敬訪問”ですが、実際は間違いなく後藤さんが主役の場であり、河村市長が目立つべき場ではなく、少なくとも名古屋市民はそう思っているでしょう。

「主役は自分」という勘違い

しかし、河村市長は自ら目立つことを選び、そのためにメダルを噛むという間違いを犯してしまいました。「最大の愛情表現だった」という意味不明の釈明も含めて、おそらく河村市長には「メダリストをおもてなしする」「わざわざ来てくれてありがとう」という気持ちはあまりなかったのでしょう。

それどころか「市民の1人にすぎない20歳の女の子があいさつしに来た」としか思っていなかったのかもしれません。そんなおごりが金メダルの扱いに表れ、「市長の僕が噛んであげたらいい話題になるだろう」という発想になってしまったのではないでしょうか。

もともと河村市長は、あえて名古屋弁を使っているほか、「総理の座を狙っている」とコメントしたり、自転車で選挙活動をしたりなど、以前からパフォーマンスが話題になるタイプの政治家。ただ、オリンピック開催中の時期であるにもかかわらず、アスリートをさておき、自分が目立とうとするような行為はマイナスのパフォーマンスでしかないでしょう。

河村市長は知らないことが多すぎたのは間違いありません。それ以前に、コロナ禍うんぬんではなく、すでに「メダルを噛む」という行為自体に否定的な選手のほうが多く、実際にリオデジャネイロオリンピックのときも断る人がいました。

あまりに度がすぎた的外れのパフォーマンスでした(写真:アフロ)

つまり、「メダルを噛む」という行為をアスリート自らが行うことは少なく、記者やカメラマンのワンパターンな演出として続いてきただけ。一般の人々も、それが見たいと思っているわけでもなく、もはや誰も得しない演出でしかないため、コロナ禍と今回の件をきっかけにやめる方向に進んでいくのかもしれません。

河村市長に話を戻すと、周囲の人々から実情を教えてもらえない。あるいは注意をしてくれる人がいないという状態ではないでしょうか。地位こそ高いものの、「それはサービス精神ではなく、自己顕示欲に過ぎません。主役は選手です」とはっきり言ってくれる人がいない人の寂しさを感じてしまうのです。

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