菅首相とメルケル首相の埋められない決定的な差 「ナラティブ不在」で右往左往のオリンピック
しかし、事の本質は、「単に説明が足りているか足りていないか?」ではないと私は思う。そこには、人を巻き込む物語的なアプローチ――「ナラティブ」が圧倒的に欠落しているのだ。政府と国民の意識をこれほどまでに乖離させてしまったのは、「説明不足」ではなく、「ナラティブ不在」なのだ。
近年ビジネスの世界でも注目が集まるナラティブは、「物語的な共創構造」と定義できる。現代社会におけるナラティブの役割は、多くのステークホルダーを魅了し、巻き込み、共体験を生み、行動を促すことだ。
「なぜ、それをやるのか?」
ナラティブを生み出す最も重要な要素――それは「パーパス(大義・存在意義)」だ。
東京へのオリンピック誘致が決まったとき、パーパスに最も近かったのは東日本大震災からの「復興五輪」というコンセプトだったはずだ。しかし、時が経つにつれてこのパーパスは希薄化し、そこに世界規模のコロナ禍が起こった。政府は2020年の3月に開催の延期を決定したが、新たな五輪のパーパスを打ち出すべきだったのは、本来、この直後しかなかっただろう。
2020年9月の国連総会での演説で、菅首相は「来年の夏、人類が疫病に打ち勝った証しとして、東京オリンピック・パラリンピック競技大会を開催する決意です」と述べたが、「疫病に打ち勝った」という状況にはなっておらず、「疫病に打ち勝つ」がパーパスにもナラティブにもなっていない。
パーパスは、「なぜ、それをやるのか?」への答えでもある。菅首相の強調する「安全安心」は、あくまで(やる前提の)「手段」の話であって、「なぜ、やるのか?」への答えにはなりえない。
もともと、2020年の東京オリンピック・パラリンピックの大会ビジョンは、“スポーツには世界と未来を変える力がある。”だった。
1964年の東京大会は日本を大きく変えた。2020年の東京大会は、「すべての人が自己ベストを目指し(全員が自己ベスト)」「一人ひとりが互いを認め合い(多様性と調和)」「そして、未来につなげよう(未来への継承)」を3つの基本コンセプトとする、とされている。
これら3つの基本コンセプトも、「パーパス」「ナラティブ」として人々に伝わっているようには見えず、「安心安全」という「手段」の陰に隠れてしまったように見える。
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