日本人が知らぬ超難関「ミネルバ大学」破壊的凄み 世界のエリートが熱視線、ハーバード蹴る人も

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19世紀、ナポレオン戦争に敗れたドイツの屈辱から立ち上がり、やがて大学の歴史を大転換させていったフンボルト原理は、「研究と教育の一致」を高々と掲げた。その基盤は、文系はゼミナール、理系は実験室で、いずれも学外の俗世間からは切り離された「理想の空間」としてのキャンパスやその教室で、いわば脱社会的に想像される「理想」の知が目指された。

だが21世紀の地球社会に求められているのは、そうした「理想の空間」から生まれる知ではない。

そもそもここで19世紀の西欧市民社会が掲げた「理想」とは、実のところ国民国家がイデオロギー的に必要とし、帝国主義と植民地収奪、ジェンダー差別によってはじめて可能になっていたものだった。

だから1960年代末以降、新しい思想的潮流のなかでこの「理想の空間」の化けの皮が剥がされていった先で、大学は底なしの方向喪失に陥り、ビル・レディングズが「廃墟」と呼んだ新自由主義的拝金主義の大渦に吞み込まれていった。

今、必要なのは、あらためて大学に「社会」を挿入すること、否、むしろ大学が「社会」のなかに染み出し、社会課題の現場のなかで学問知の批判力や想像力を試し続けることである。ミネルバ大学の実践が、もしかしたら当事者の自覚以上に示唆に富むのは、このような大学の再定義にとって、オンラインという技術上の仕組みが有効なことを実証しているからにほかならない。

実空間から撤退したら、大学の学びは行き詰まる

上手に組み立てられたオンライン大学は、学生たちが社会の現場で課題に取り組むことと、教室で教師や他の学生と理論的思考を深めていくことを、まったく同時に可能にする。

大学の学びとオンライン、社会的実践のこうした関係は、多くの大学が危機対応で授業のオンライン化を進めている現状からすれば、随分と先の未来の話に聞こえるに違いない。

現状では、多くの教員も学生も、あまりにも長い時間、自宅のパソコンの前に座り続け、オンラインでやり取りされる画面の動きやイヤホンからの音声に浸りきっているので、自分の身体そのものがデジタルの虚空に溶けていってしまうような感覚の毎日を過ごしているに違いない。

もしも大学が完全オンライン化し、実空間から撤退してしまったら、大学の学びは行き詰る。オンライン授業には外部の実空間が必要である。問題は、それが本当にこれまでのようなキャンパス内の教室でいいのかという点になる。

この問いに対し、ミネルバ大学は実空間としての大学キャンパスがなくても、世界の都市がキャンパスとなりうることを実証した。「書を捨てよ、町へ出よう」ではなく「オンラインの学びを携えて町へ出よう」なのだ。

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