保存めぐり注目「高輪築堤」が持つ歴史的価値 国内初の鉄道の遺構、日本近代化の生き証人

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幕末になると、日本に来航した外国船が蒸気機関車の模型を持ち込み、これを運転してみせたり、遣欧米使節として西洋に渡った者たちが、現地で鉄道に乗車したりするなどして鉄道への理解を深めていった。日本初の鉄道整備において重要な役割を担った大隈重信も、佐賀藩士時代に佐賀藩が製作した蒸気機関車の模型を見学したことが、その原点となったと言われている。

当時の日本人の鉄道に対する理解と知識を示すエピソードがある。1865年、イギリスに派遣された使節団の一員として、世界初の地下鉄であるロンドンのメトロポリタン鉄道に乗車した熊本藩士の岡田摂蔵は、この鉄道が人々の往来の妨げとならないように地下に建設されたと記している。岡田は地下鉄が都市の交通問題を解決するために立体化された鉄道であることを正確に理解していたのである。

明治維新以前にも江戸幕府や薩摩藩に鉄道建設計画が存在したが、明治政府が成立すると英米からの働きかけもあり、鉄道の建設を進めるべきとの機運が盛り上がっていく。1869年11月には東京と京都・大阪・神戸を結ぶ幹線鉄道と、東京・横浜間と琵琶湖・敦賀港間を結ぶ支線の建設方針を定めた「鉄道建設の廟議決定」がなされ、鉄道の建設が決定する。

苦肉の策だった海上築堤と橋

とはいえ当時、鉄道建設の意義を理解する日本人は少数であり、政府の中からも西洋文明を排撃する排外主義思想に基づく反対論や、鉄道よりも軍備を優先すべきという主張がなされた。政府は鉄道建設により中央集権体制が確立すれば、結果的に軍備の強化にもつながるとして反対派の説得に努め、ついに1870年、東京・横浜間の鉄道建設に着手するのであった。

出土した高輪築堤の一部(2街区)(写真:JR東日本提供)

しかし、日本初の鉄道建設は順風満帆とはいかなかった。兵部省(軍)は鉄道側が求めた用地を国防上必要であるとして手放さなかったからだ。大隈重信は「軍の土地などいらぬ。陸蒸気を海に通せ」と線路を海上に敷設するよう指示。新橋―品川間の約2.7kmの区間は、東京湾の遠浅に幅6.4mの堤防を築き、その上に線路を通すことにした。これが高輪築堤である。

鉄道にはもうひとつの反対論があった。東京湾の漁民が鉄道建設によって生計の道を失うとして反対したのである。高輪築堤が完全に浜辺をふさいでしまっては漁に出ることができなくなる。そこで、築堤には浜辺と東京湾をつなぐ4つの水路が設けられることになった。今回、出土した第7橋梁跡地もそのひとつである。

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