(中国編・第八話)ラストチャンス
「東京-北京フォーラム」は北京と東京で毎年交互に行い、10年間継続することが決まっている。北京での立ち上げが終わると、私はすぐに東京での開催の準備に取り掛かった。大げさな言い方かも知れないが、私は北京での「民間対話」の立ち上げに、歴史的な意味を感じている。ただ当時の私にはそれが第一歩に過ぎない、という思いの方が強かった。
民間対話の役割は政府間の対話を補完するものである。が、肝心の政府間の関係は首相の靖国参拝を巡り、ほとんどの交渉が停滞する状態であり、国民の間には感情的な反発も残っている。
政府の関係改善が進まない中で、民間の対話をどう今後、発展させることができるのか。私たちに求められていたのも、まさにそうした課題の解決だった。
東京開催は、北京での立ち上げ以上に深刻な問題を抱えている。
2006年9月の総裁選で退陣が決まっていた当時の小泉首相は、その夏には靖国参拝を行う意向を示している。フォーラムはそのまさに8月の東京での開催なのである。
そうした政治的な環境下で中国側の出席者が予定通り東京にくることは可能なのか、さらに民間の対話で何を実現できるのか。それが私の何よりの気がかりだった。
年が明け、中国で旧正月が終わると、私は再び北京に向かった。全人代の会議が北京で始まっていたが、訪日団派遣の確約をどうしても取り付ける必要があった。
北京では対外的な民間交流に責任を持つ中国対外友好協会の陳昊蘇会長が、私との面談に応じてくれた。会議を抜け出しての慌ただしい面談だった。
陳会長は文化人らしい穏やかな笑顔が似合う中国を代表する有識者であるが、実はあの中華人民共和国の立役者の一人の陳毅元帥の息子さんでもある。
一通りの挨拶が済んだ後、私は尋ねた。
「8月の東京開催でも訪日は可能ですか」
「民間の会議がいちいち政治の都合に影響を受けたら、会議が継続するのは難しいでしょう。訪日団は派遣します。ただ、現職の大臣が何人も揃うのは難しい」。
いつも通りの優しそうな口ぶりだが、判断は早かった。
帰国後、私は8月開催に向け、日本側の有識者による準備会議を発足させた。
会議には、2005年北京での立ち上げに参加した、小島明日経センター会長や白石隆政策研究大学大学院副学長、進和久ANA総合研究所常勤顧問、安斎隆セブン銀行社長、溝口善兵衛国際金融情報センター理事長(現島根県知事)、鈴木寛参議院議員などが集まった。
第一回目の北京のフォーラムでは国民間にある基礎的な理解不足に関する認識を出席者が共有し、その解決に向けて話し合った。東京で行う日中対話では共通の課題解決についてもっと向かい合えないか、と私は考えていた。日中やアジアの将来についてのメディアや政治家の対話のほかに、歴史認識の問題や資源の問題である。
準備会の打ち合わせでそれらが、分科会のテーマとして固まったが、こうした個別テーマを越えて、私はあることを実現できないかと本気で考え始めていた。このフォーラムを、日中が関係改善に動き出す歴史的な転機にできないか、ということである。
「このままだと日中関係は取り返しが付かない事態に陥るのではないか」。私の心の中ではそんな気持ちが高まっていた。それを痛感したのは、第二回の日中世論調査の集計作業の途中である。
反日デモから一年が経過し、中国国民の感情にもやや落ち着いた傾向が出始めた。
問題は日本側の反応である。国民の意識に中国の経済、軍事両面での脅威感が出始め、相手国を敵とみなすナショナリズムの傾向が、中国ばかりか日本でも見え始めた。
中国の反日デモの光景は何度も日本側のメディアに登場し、様々な情報が放映された。情報の“期ズレ”ともいうべき現象が、日本側の国民感情を動かし始めたのである。
私は、日中関係は水が流れない、水溜まりのようなものだと思っている。交流を失った社会は、水が淀むように活気を失い、将来への重大なリスクを抱え始める。
東京開催のフォーラムはむしろその状況を変えるための「ラストチャンス」ではないか、と思えたのだ。