老親の事故で子も責任?「家社会」日本の大難題 問われるセーフティーネットの今後のあり方

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実は、玄蕃は、旗本の正室の息子ではないのだ。身分の高くない女性に、殿様のお手がついた。彼女は妊娠する。奥方様の怒りをおそれた小心の殿様は、お手つきの女性をお腹の中の子もろとも屋敷から放り出す。そのときのお腹の中の子が玄蕃だった。

幼い玄蕃は病弱の母のもと貧乏長屋で育つ。ところが、正室の息子たちが、はやり病で相次いで亡くなってしまう。そこで、伝統ある家を絶やすよりはと、長屋から屋敷に呼び戻されたのが玄蕃だった。そんな彼は、貧乏というものを骨の髄まで知っていたのだ。

家存続のために命も投げ出すべきという武士の掟

さて、物語の本筋ではないが重要なことがある。まず、家督を継ぐ者がいなくなって青山家を絶やすことは、決してあってはならないということ。それを防ぐためには、妾腹と憎んで追い出した幼子すら、嫌々ながらも手元に引き取って奥方が育てなくてはならないということ。つまり、家を絶やすなという大いなる使命のもと、個人は心を押し殺す。

家の存続のために差し出すべきは心だけじゃない。命までも投げ出すべきという武士の掟が物語の下敷きになっている。罪を疑われた玄蕃に、評定所は切腹を言い渡す。もし切腹をすれば、青山家をお取り潰しにすることはせずに知行も家来もそのままにして、玄蕃の嫡男に継がせることができるという。

切腹にはそういう意味合いがあったのだと私は知る。切腹が武士の名誉とされるのは、個人の命を投げうって家を守るという美学ゆえか。命と引き換えに、家の体面と財産が守られ、武士という「家業」を次の世代へ受け継がせることができる。つまり、家の究極的な目的は家の存続にある。

平時において、家は、その傘の下に集うかよわい個人を守ってくれる。だが、家を残すか個人が生きるかの究極的な事態では、躊躇なく個人を犠牲にして家を温存する道が選ばれる。個人を飲み込んで、家は連綿と続いていく。

家制度そのものは、戦後の民法からきれいさっぱり取り除かれた。だが、組織のために個人を犠牲にするという「美学」自体は、私たちの社会に根強く残っている。

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