「山口達也のときは会見したのに…」なぜ国分太一のコンプラ違反では“会見ナシでTOKIO解散”となったのか? ここに至る《7年前の違和感》

6月20日に国分太一さんのコンプライアンス違反による活動休止が発表されてからわずか5日、TOKIOが解散を発表し、31年の歴史に幕を閉じました。
公式ホームページで発表された文章の中で注目を集めたのは、「メンバーでお互いの意思を確認し合い、このような状態になった以上、グループ『TOKIO』として活動して皆様から再び信頼をいただき、応援いただくことは難しいと判断した」というフレーズ。
会見を開かず文書のみで発表したことも含め、城島茂さんと松岡昌宏さんの苦しい立場がうかがえました。
さらに「今後につきましては、まずはご関係の皆様にお詫びとご挨拶をさせていただきながら、それぞれが自分自身と向き合い、これまでお世話になった皆様に対して貢献させていただくことができるとすれば何なのかを真摯に問い続けていきたい」というフレーズからは、急対応で今後のことは決まっていないという追い込まれた心境が伝わってきます。
今回の決断に至る「7年前の違和感」
一部の報道やSNSでは、会見を開かず文書のみにとどめ、コンプライアンス違反の内容にふれないことを否定する声もありますが、それは「TOKIO解散」における本質ではないでしょう。
ではなぜTOKIOはこのような寂しい形で解散に至ったのか。単に「人数が減ったから」「不祥事が続いたから」ではない書面での解散発表につながった背景と、それをせざるをえなかったいくらかのミスをあげていきます。
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