伝説の思想家が説いた「思想を残す」という重み 内村鑑三は100年前の若者に一体何を伝えたか

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長くなりそうなので、本を書いて、思想を残すことについて、文学の面からお話しします。

教育も思想を遺すよい方法ですが、思想それ自体を残すのは文学しかありません。文学は私たちが常に考えている思想を後世に伝える手段であり、それが文学の意味であり、実用的な目的だと思います。思想は遺すべき偉大なものであり、その思想を現実に行ったものが事業です。

逆に言えば実行できないから、種をまくように思想を遺していくのです。「私は自分の思想が世の中で理解されないことを恨み、怒り悲しみながら死んで墓に入るが、私のあとに続く人々よ、あなた方は機会があれば、私の思想を実行しなさい」と後世へ言い遺したいと思います。そのようにして遺したものは偉大なものです。

新約聖書は平凡な漁師、無名の人たちが書いた

よく知られているように、2000年ほど前にユダヤ人の平凡な漁師や、無名の人たちが、『新約聖書』という小さな本を書きました。その本がキリスト教を伝え、世界全体をよくしてきたことは、みなさんはよくご存知でしょう。

また最初にお話しした頼山陽は勤王論を提唱しました。山陽は、国民が一致団結して、日本を復活させなくてはならない。そのためには、当時政権を握っていた武士の徳川政権を廃止して、皇室を尊ぶ王朝時代に戻るべきだと考えていました。

しかし、山陽は実際に行動を起こしたりはしませんでした。もし山陽に先見の明がなく、徳川政権に対して反乱を起こしていたら、戦死していたでしょう。山陽はそんなに馬鹿ではありませんでした。自分の生きている間に徳川政権を倒すことはできないとわかっていたので、自分の思想を『日本外史』(江戸時代後期の歴史書)に書きました。

ここで、山陽ははっきり「皇室が正しい」とは書かずに、皇室を尊ぶ気持ちをにじませながら、源平以来(鎌倉時代以後)の武家の歴史を書き残したのです。多くの歴史家が指摘するとおり、明治維新の原動力のひとつが、『日本外史』であったことは間違いないでしょう。山陽は思想を遺して日本を復活させたのです。明治維新前後の歴史を細かく調べると、山陽の功績がとても大きいことがわかります。

私は山陽について『日本外史』以外のことはわかりません。プライベートに関しては、いくつか感心できないこともあります。国体論や兵制論も賛成できません。けれども「私はこの世には何も望まないが、後の時代の人たちにはとても希望を持っている」と書いた山陽の大きな志(Ambition)をとても尊敬しています。山陽は『日本外史』を遺して、東山(京都市)に埋葬されましたが、その本、『日本外史』から新しい日本が生まれたのです。

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