コロナ後が逆に不安な人々が実は少なくない訳 生活や仕事の自律性、非日常を失うという反動

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わたしたちはパンデミックの直後から、ニューノーマルの生活様式を少しずつ内面化し、出勤や人間関係に伴うストレスの減少など、その恩恵に浴する機会を得るとともに、コロナという共通の課題に立ち向かうための協力や協調、生物災害という特殊な時空間における緩やかなつながりを経験することになった。誤解を恐れずに言えば、ここには、新しい環境における自律性の獲得や、高揚感の持続への期待が含まれており、そしてそれはおおむね達成されたとみていい。

つまり、これまでの生活や働き方をコロナに適応させるだけでなく、それをプラスの側面から捉え直すといった思考への切り替えも行い、その結果、価値観や人生観に少なからぬ影響をもたらしたのである。自粛生活をきっかけに何が自分にとって大切かが明確になったり、人間関係を整理したりした人は多いはずだ。それらの一連の出来事が終わりを迎えることは、現在の適応形態を再び元の状態に戻すことに近く、生活や働き方の問題以上にメンタルの問題として現れるのである。再適応の困難だ。

非日常的な感覚の喪失

そこにあるのは、恐らく「もう満員電車には乗りたくない」「ムダな飲み会には参加したくない」などといった、見た目にも理解しやすい物理的な拘束への抵抗感よりも、コロナを機に図らずも切り開かれた(別の現実ともいえる)「新世界」が閉ざされることへの懸念だろう。

これがもう1つの非日常的な感覚の喪失に関係してくる。

先の「英雄期」や「ハネムーン期」の深層にあるものだが、これが消えてしまうのはある種の熱狂が冷却するのに似ていて、その落差のせいで戸惑いや空虚感に襲われる可能性が高い。

精神病理学者の木村敏は、精神病理を「祭り」(フェスト)における心理的時間感覚に例えたことで知られているが、災害の只中にいる狂騒の状態を「祭りの最中(イントラ・フェストゥム)」と考えると、災害の収束はいわば「祭りの後(ポスト・フェストゥム)」であり、心にぽっかりと穴が空いたような虚無感が待ち受ける。

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