コロナ後が逆に不安な人々が実は少なくない訳 生活や仕事の自律性、非日常を失うという反動

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もちろん、災害そのものは通常の意味での「祭り」ではない。しかし、マスクやトイレットペーパー、食品の買いだめ・買い占め騒動が如実に示しているように、不安と恐怖にあおられた人々を独特の興奮状態に陥らせる「負の祭り」を作り出す。これはほんの一例にすぎない。非常時というものは、誰が被害をこうむるかが不透明という独特の緊張も手伝って、地面から数センチ上を歩いているような「浮ついた感じ」を醸成するだけでなく、非常時ゆえに享受することがきている自身のポジションに対する肯定的な気分と区別がつかなくなっていく。

このような再適応の困難と非日常感覚の喪失は、「コロナ後うつ」のような症状の蔓延として現れるかもしれない。

失政や身近な人のひどい言動を忘れてしまわないように

だが、もっと重要なことは社会との関連だろう。単なる感傷で片付けるのではなく、可能になったことを手放さず、気付きを深めることが必要になる。本当に避けなければならないことは、「コロナロス」といった言葉の背後で霞んでしまいがちな、コロナ禍における失政や身近な人々の人間性を疑う言動、それによるさまざまな被害について、「何事もなかったように忘れてしまう」ことではないだろうか。

今わたしたちは、マクロレベルでは、コロナ禍の遠因とされる野放図な経済活動などによる環境破壊とそれに伴う気候変動の悪夢を、ミクロレベルでは、前時代的で非合理な政治と社会構造による悲劇や、生産性優先の風潮を推し進める無慈悲な人々を見いだしているが、このような切実な問題意識をコロナが収束した後も持ち続けることができるかは大いに疑問だ。

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これは経済学者のジャック・アタリが、「それまでの世界に戻ろうと願う者たちと、そのようなことは、社会、政治、経済、エコロジーの観点から不可能だと理解する者たちとの間で、激しい論争が起こるだろう」(『命の経済 パンデミック後、新しい世界が始まる』林昌宏・坪子理美訳、プレジデント社)と予見した問題に通じている。

コロナによってあらわになった酷薄な現実をしっかりと記憶することによってのみ、わたしたちはコロナ後をムードに押し流されずに歩むことができるだろう。

真鍋 厚 評論家、著述家

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まなべ・あつし / Atsushi Manabe

1979年、奈良県生まれ。大阪芸術大学大学院修士課程修了。出版社に勤める傍ら評論活動を展開。 単著に『テロリスト・ワールド』(現代書館)、『不寛容という不安』(彩流社)。(写真撮影:長谷部ナオキチ)

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