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「日本人は多神教だから寛容」通説は本当なのか 統計調査をもとに考察する「無寛容」の正体

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これらの事例を検分すると、それまでふだんは何でもない温和な近所づきあいをしていたのに、ひとたび相手を異物として認識するや否や、突如それが情け容赦のない排除に転化する、という戦慄のプロセスが見えてくる。

必要なのは、自分でも気づかぬうちに、温和な無寛容が凶暴な不寛容へと転化してしまわないように、われわれが常日頃もっている寛容の作法を歴史的な視野の中で位置づけ直すことである。寛容の思想を問い直し、甘いところや弱いところを意識的に鍛錬しておかなければならない。

不愉快な相手に対しても礼節を守る

多くの日本人は、寛容は美徳だと思っているだろうし、自分もどちらかと言えば寛容な人間だと思っているだろう。だがそれは、あくまでも一般論で他人事のときだけである。寛容の問いが自分自身に及び、深刻な利害が身の回りにひた寄せてくると、ようやくその不愉快さに思い至るようになる。

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ただ、そういうときにも、いきなり自分が不寛容な人間だとは認めたくないものである。すると、残る選択肢は、相手に非があるからしかたがない、という正当化である。

昨今の社会問題では、何かと窮屈な正義をふりかざす人が目立つようになったが、それは結局のところ、自分が不寛容だという事実に目をつぶりたいからなのかもしれない。普段なら、本来なら、自分はもっと心の広い大らかな人間なのだが、相手があまりにひどいから、やむなく社会正義のために批判するのだ、という自己解釈である。

もしそこで、「自分は実のところ案外不寛容な人間だ」ということを受け入れたら、どうだろうか。自分の意見や好みに合わない人には、どうしても否定的な評価をしてしまう。それでも、内心はともかく他者への礼節を守り、相手と対話を続けることができれば、ただ嫌悪を押しとどめるだけでなく、もう一歩その先へ行ける可能性も生まれるのではないか。

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