「日本人は多神教だから寛容」通説は本当なのか 統計調査をもとに考察する「無寛容」の正体

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実は、宗教学的には「一神教」や「多神教」の定義は困難である。教義のレベルと生活実態のレベルで捉え方も異なってくる。日本が多神教の国であるかどうかも、天皇制などを考慮するとかなり複層的な評価になるだろう。

ただし、そういう難しい議論を脇において、もう少し簡単な判断も可能である。それは、多神教だけで多様であるとは言えない、ということである。信じている神の数が多ければ多様だ、というわけではない。みんなが多くの神を信じているなら、それはそれで、人間の集団としてはむしろ偏っている、ということになろう。宗教に無関心な人ばかりが集まっていても、多様とは言えない。

多様であるということは、多神教を信じる人も一神教を信じる人もいて、宗教に熱心な人も無関心な人もいる、ということである。それらの人びとが交ざり合い、接触と移動を繰り返し、お互いの存在をより身近に感じるようになれば、社会の寛容度も上がるだろう。

「不寛容」ではなく「無寛容」

もっとも、わたしは日本人がとりわけ不寛容だとは思わない。むしろ、日本人はかなり寛容なのではないかと考えている。

先ほど「世界価値調査」を引用したが、あの数字はあくまでも「内心でどう思っているか」を問う統計である。しかし、いざ実際に人と人との直接の付き合いになると、日本人は案外上手に寛容と礼節をもって接していることが多いように思われる。

そもそも寛容とは、自分と違う人や自分が否定的に評価するものを受け入れることであり、「評価しないけれど受け入れる」「嫌いだけれど共存する」という姿勢である。それは本質的に「上から目線」の恩着せがましい態度だったし、近代以前にはとくに美徳であるとは見なされていなかった。

寛容の対象が自らが否定的に評価するものだとすれば、無関心でどうでもよいと思っていることに対しては、寛容にも不寛容にもなれない。だから日本は、寛容でも不寛容でもなく「無寛容」だと言うべきなのかもしれない。

ただしこの無寛容は、ときとして容易に「不寛容」へと変貌する。歴史を振り返ればわかるように、日本はお上から庶民に至るまで、主流と異なる思想や宗教には苛烈な迫害を加えてきた。古くは真宗やキリシタンへの迫害から、戦時中の「非国民」呼ばわり、コロナ禍で自然発生した「自粛警察」など、その例には事欠かない。

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