街中で「数字が名前につく銀行」が減少した背景 「ナンバー銀行」の栄枯盛衰の歴史を振り返る
日本の銀行の歴史は、1872(明治5)年の「国立銀行条例」に始まる。翌1873(明治6)年、渋沢栄一が第一国立銀行(第一銀行)を設立したのを皮切りに、各地で番号を冠した銀行が設立されていった。ナンバー銀行はその後も増え続けたが、1879(明治12)年設立の第百五十三国立銀行で打ち止めとなった。ナンバー銀行は第百五十三銀行まで設立され、これらの多くが現存する銀行の源流になっている。
例えば、みずほ銀行は第一銀行にルーツを持つが、他にも数多くのナンバー銀行を吸収している。たとえば第五銀行は、浪速銀行(三十二銀行の後身)に併合された後、十五銀行、帝国銀行、第一銀行、第一勧業銀行と何度も併合を繰り返して、現在のみずほ銀行へ至っている。
また、第六銀行は肥後銀行と改称の後、1923(大正12)年に、二十二銀行・百三十銀行などとともに、第三銀行にルーツを持つ安田銀行へ合流した。その後、財閥解体を経て富士銀行に改称し、やはり現在はみずほ銀行の一部となっている。
中小銀行は併合・整理を余儀なくされる
こう見てくると、いわゆるメガバンクがいかに巨大で複雑な怪物か、改めて思い知らされるというものだ。さて、明治期に153行もあったナンバー銀行が激減する最初のきっかけになったのは、1923(大正12)年の関東大震災、そして1927(昭和2)年に起こった金融恐慌だ。これらの衝撃によって体力のない中小銀行は追い詰められ、多くは併合・整理を余儀なくされた。
さらに1936(昭和11)年からは、銀行間の競争を国策の妨げと考えた政府が「一県一行主義」を打ち出し、強制的に統合を進めていった。たとえば茨城県では、土浦市にあった五十銀行と、水戸市にあった常磐銀行(水戸六十二銀行の後身)を中心に合併が行われ、常陽銀行となった。終戦までに、県内の41もの銀行が同行に統合され、現在に続いている。
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