現代人に不可欠な「スキル」実は古典で養える 日本の古典にハマったイタリア人がみた世界

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──本書の読みどころは、伸び伸びとした「超訳」です。

私は古典の専門家ではありません。だから作品はまず現代語訳で読んで、それから原文や注釈に当たり、わからないところは文法を確認する、という順序で自分なりに解釈していきます。そのとき、頭の中で言葉をビジュアル化して、映画のように流してみるんです。そのイメージにできるだけ合うように訳文をつけていきます。『蜻蛉日記』で作者の藤原道綱母が浮気をした夫に恨み言を言う段では「もうあたしのところには来ないつもりってことね? (チッ)」といった具合です。

助詞1つをとっても、あえてその言葉を選んだ意味を考え、ニュアンスを強調していきます。まじめな研究者には失礼に当たるかもしれませんが、たとえいいかげんな想像であっても、服の色や琴の音など、できる限りの知識で場面にディテールをつけていく。すると、おのずと自分なりの訳が出てくるんです。

世界的にみても珍しい平安文化

──作中には、男への恨み言や辛辣な批評も出てきます。平安女子は、ただ受け身なだけではない。

例えば『枕草子』では、将来の夢もなく、ただ男性にすがって生きている女のことを「えせざひはひ」、つまり形だけの幸せだと評しています。だから良家の娘でも、天皇に仕えて高級女官くらいは経験しておくといいわよ、と。時代背景を考えると、宮中で働いていた清少納言のように仕事をして自立した女性はまれな存在だったはずです。その中で、ここまで明確な考え方を持つ人がいたこと自体、驚くべきことです。

私の知る限り、女性が文化の中心となり、自ら発信することができた平安時代の文化は世界的に見て珍しい。使える文字(ひらがな)と書く機会さえあれば、女性でも深い表現ができたのだということなので、考えさせられる。作品が残っているから後世の人はそれを知ることができるけれど、現存していなければ「女性は表現をする能力がなかったのだ」と解釈されているかもしれません。

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