私は2014年4月21日まで、公的年金の運用機関であるGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の運用委員というものを4年間務めた。運用委員とは、簡単に言えば、社外取締役みたいなものである。現在、「安倍政権の官邸が主導して、GPIF改革が行なわれようとしている」という報道が盛んになされている。
私だけでなく、多くの運用委員が4月22日から入れ替えとなり、2名を除いては新しいメンバーで運用委員会が行なわれることとなった。そして、今後は、いわゆる有識者会合で議論された、ガバナンスなどの変更が行なわれることになるだろう。
本質を外している、GPIF改革
しかし、GPIF改革のニュースは日本国内よりも海外投資家に注目されており、私に対する取材も、ほとんどが外資系メディアと海外投資家である。そして、彼らの注目は、アセットアロケーションの変更がどのように行なわれるかである。つまり、彼らは、GPIFが今後何を運用対象資産とするのか、どの資産を買ってくるのかということにしか関心がない。要は、「日本国債を売って、株を買うのかどうか」ということである。
これは誤った議論であり、誤った改革である。今回のコラムでは、現在議論されているGPIFの改革のどこが誤りか、本質はどこにあるのか、本当はどのような改革が望ましいのかについて議論したい。
まず、GPIFが存在することのメリットとデメリットを整理する必要がある。
GPIF改革議論の第1の、そして最大のポイントは、国民が自分の年金を自分で積み立て、自分で運用するのか、政府に預けて、政府が委託してGPIFが運用するのがいいのか、というところにある。
理論的には、政府が余計なことをするよりも個人の自由に任せたほうがいい、という考え方が強力であり、反論はしにくい。問題は、理論と現実は異なるということである。どう異なるかというと、人間は愚かだ、という現実である。人間が愚かであるとすると、愚かな個人が自分で運用するよりも、優れた専門家集団の専門的な組織に委ねた方がいいことになる。これが、GPIFの存在意義だ。
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