運用者が陥る「わな」
だから、事前の透明性を犠牲にして、事後の「説明責任」でガバナンスを担保しようというのが一般的な戦略となる。GPIFの運用委員会の議事録も7年後に公開であり、日銀の政策決定会合も10年後に公開で、即時に公開すると手の内がばれるので開示しないが、事後的な検証のために将来に公開することにコミットさせるのである。
これは公的年金にとどまらず、出資者から委託されて運用している、ほとんどすべての運用者が陥るわなである。結局は、出資者の資金を運用しているから、リターンが100%自分のものになるわけではない。投資はなかなか難しく、正しいことをしていれば必ず良い結果が出るとも限らない。
出資者は説明責任に固執し、事後的に、とりわけ損失が出たときには感情的になり、責任追及してくる。このようなひずみがあるから、運用者としては、分かりやすい運用方針、説明しやすい運用方法に傾きがちとなる。それが、時価のある資産への投資バイアスであり、他の投資家が運用している資産や運用手法への追随である。つまり、時価で買っていたのだから割高だったわけではない、みんながやっていたことであり、当時はバブルだとは誰もわからなかった、といったいいわけがしやすい投資スタイルに陥ってしまうのである。
このように、公的年金の運用ということは、国民という出資者の意向を踏まえなくてはならず、さらに悪いことに、よりぶれることの大きい政治という媒介者も入っていることから、ガバナンスという名の下に、中途半端な意思決定への介入があればあるほど、運用におけるリターンは犠牲にされるのである。
では、どうすればいいか。
それは「信頼」につきる。
国民が政治を通じて専門機関に委託するという構造は、現実的には不可避であるとすれば、GPIFが政治と国民に信頼されなくてはならない。彼らの全幅の信頼が得られれば、そして、その信頼が正しいものであるならば、GPIFを信頼して、彼らがベストだと思う運用に任せる。これしかない。成功している(しかし、ほんの少ししか存在しない)投資家は、過去の実績や、余裕があり、目利き能力の高い出資者に支えられることにより、自由な運用を行い、成功してきている。
GPIFを信頼し、任せる土壌を整えよ
そして、この信頼を醸成し、維持するものが、本当の「ガバナンス」なのである。それには、目利き能力が高くないといけない。国民にも政治にもだ。最適な人材を選び、それは公的な正義感と、運用の能力と、その両方を兼ね備え、そして、民間の運用者であれば、年間数億、いや十数億稼げるという機会を犠牲にして、公的年金の運用に身を捧げる人、そのような人を見つけ、見抜かなくてはならない。そして、その後は、任せるしかない。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら