コロナが映す「平和な社会」に必要な5つの視点 民主主義の走錨とまだらな発展が浮き彫りに

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筆者が本稿で強く主張したいのは、私たちの生活における日常性の確保である。初瀬龍平は「日常性の事象は、社会の深部にかかわり、長い時間にわたり継続的に生起するものである」と述べ、それに対して「非日常性の事象は社会の表層に起こって、比較的に短い時間(あるいは期間)、存続するものである」と両者の相違を述べている。初瀬が依拠した日常性の議論は、フェルナン・ブローデルの『日常性の構造』であった。

ブローデルは生物学的〈旧制度〉で、ペスト、天然痘、マラリアなどの流行病も含み多くの人々が亡くなったことを指摘する。ウイルスが「あらゆる人間団塊から別の人間団塊へと、両脚を揃えてぴょんぴょん跳ねて」いくのだ。そこで、「金持ちはあたふたと別荘めざして逃げ」「各自がもはや自分のことしか考えなかった」という。そして、貧民ばかりが取り残されて、「病菌に汚染された都市に囲いこまれ、国家の手で養われ、隔離され、封鎖され、監視された」。流行病は階級間の関係を際立たせて、極貧者に襲いかかかり、「金持ちには目こぼしをする」と述べている。

感染症は「昂進と衰退とを繰り返す」

ブローデルも指摘するように歴史的に感染症は「昂進と衰退とを繰り返す」のだ、非日常性が比較的短い時間で存続することを鑑みると、国際社会は国家を超えた人類の叡智を持ち寄ることが必要ではないか。まとめると、平和な社会の構築に向けた国際協調と国際協力を重視する多様なネットワークを日常的に構築していくことが求められているのだ。

新型コロナウイルスは典型的な非日常性の事象に属するが、自由主義や民主主義は私たちの日常生活の平和を創造する基本であり、「恐怖からの自由」を担保するものである。また貧困からの脱却、つまり「欠乏からの自由」も「誰ひとり取り残さない」(SDGs)世界の実現にとって同様に長く人類が目指してきた取り組みであろう。

山田 満 早稲田大学社会科学総合学術院教授

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やまだ みつる / Mitsuru Yamada

1955年生まれ。国際協力論、平和構築論専攻。

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