木村花さんの死が問う「虚構に踊る人々」の愚鈍 誰に強制されるでもなくスマホに呪詛を吐く
筆者はこれをSF小説の言葉をもじって「自発的な2分間憎悪」と呼んでいる。ディストピアを描いた有名な長編小説『1984年』(ジョージ・オーウェル著、早川書房)は全体主義国家のオセアニアを舞台として、党員たちは毎日同じ時間にホールに集合し、巨大なテレスクリーンの前に座る。人民の敵であるエマニュエル・ゴールドスタインや敵国であるユーラシアの軍隊などの映像に向けて、思い付く限りの怒りや非難の声を投げ付けるためである。要するに、この行事によって1人ひとりの党員の党への忠誠心を確かめるのだ。これが「2分間憎悪(Two Minutes Hate)」である。
恐るべきことに、わたしたちは思想警察などが存在しない時代に生きているにもかかわらず、誰に強制されるわけでもなく、巨大なテレスクリーンの代わりに、スマホという小さなテレスクリーンに向かって、人民の敵ならぬ「メディアが作り出した虚像」に呪詛(じゅそ)を吐いては、憂うつで退屈な日常をやり過ごそうとしているかのように見える。
関心経済に人生を支配されつつある人々
それは、誰が敵かを指示する国家権力の意図などとはまったく無関係に、「ネットユーザーが自発的に行う『2分間憎悪』」そのものである。この場合の虚像は、インフルエンサーからフェイスブックの友人まで例外はない。アテンション・エコノミー(関心経済)が作り出すエコシステムに人生を支配されつつあるのだ。
前出のラケットとケーシーは、「ソーシャルメディアというテクノロジーと、その周辺に築かれたオンライン社会はまだ若く、発展途上だ。そこには往々にして、微妙なニュアンスが欠落している。それを解決するにはおそらくソーシャルメディアの経験を重ねながら、もっと多感的な世界を育てていかなくてはならない」と言った。
当然、今回の事件は、自分たちが作る番組の社会的影響に無頓着だったテレビ局、匿名で個人攻撃を繰り返す卑怯なネットユーザー、それを野放しにしたソーシャルメディアにそれぞれ別種の責任があるだろう。けれども、気軽にスペクタクル(見世物)を消費する側にいるわたしたちが免責されるわけではない。
アテンション・エコノミー(関心経済)の暴走を助長するわたしたちの社会システムだけではなく、貴重な時間を「メディアが作り出した虚像」への執着に奪われ続けていることに気付かない、ソーシャルメディアという道具を「何かの埋め合わせ」にしてしまいがちな、わたしたちのライフスタイルそのものの妥当性もが問われているのだ。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら