木村花さんの死が問う「虚構に踊る人々」の愚鈍 誰に強制されるでもなくスマホに呪詛を吐く

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このような数奇な「誤解」に基づく人民裁判が独り歩きし、人生を強制終了させられた人々は有名無名を問わず枚挙に暇がない。ラケットとケーシーはサッコの顛末を振り返りながら、「たしかに彼女のジョークは発想がまずいし、ソーシャルメディアに対する無知が浮き彫りにされている。だが、これほどの代償を負うべきものだったのだろうか?」(前掲書)と疑問を投げかけている。

多数の事例の中から自分に都合のいいものばかり選ぶことをチェリーピッキングというが、「取捨選択という作業」が存在する限り何らかのバイアス(偏り)は必ず生じてしまう。わたしたちの視界に入るメディアの創作物、特に二次情報というものは本稿も含めて多かれ少なかれチェリーピッキングは免れない。これは原理的にそうならざるを得ないのである。

誰かを映した「虚実皮膜の物語/キャラクター」は制作段階で「取捨選択という作業」が行われ、誰かが発した「アイロニー(皮肉、反語)」は報道段階で「取捨選択という作業」が行われている。切り取りや捏造、印象操作という言葉はその数多のバリエーションに過ぎない。けれども、運悪く物事に白黒つけたがる者たちが扇動するソーシャルメディアの負の連鎖に巻き込まれてしまうと、制作サイドの意図や特定の文脈から切り離された情報からのみ「人間性」が判定されるのである。

「創作」によって本人が被る「代償」があまりに大きい

世界中のリアリティー番組で自殺者などが続出しているのは、この「創作」によって本人が被る「代償」があまりに大きいからだ。この事実をまず冷静に受け止めるところから始めなければ、たちまちアテンション・エコノミー(関心経済)の奴隷になるだろう。

わたしたちの社会はそのような意味においてすでに絶好の餌場になっている。現実の社会に実りを感じることができず、無意識にスマホばかりに没頭する人々が増え、かつてないほどネット上の相互監視が進んでいる。ファクトチェックなどお構いなしに感情を逆なでする情報が飛び交い、いち早くそれらに便乗し、反応していくことが自らを奮い立たせ、アピールする最善の行動様式になってしまっている。

オンライン上で見ず知らずの他人にケンカを吹っかけたり、罵詈雑言を浴びせたりするのは、人生に対するさまざまな不満や不安への反発である以上に、アテンション・エコノミー(関心経済)への過剰適応なのである。

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