太田光が「テレビ受けする発言あえて避ける」訳 ネット世論とは一線画す「言論人」としての顔

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有名人が過ちを犯したり倫理に背くことをしたりしたことが明らかになると、ネット上では正義の名のもとに罵詈雑言が飛び交い、その人を一斉に叩き始める。SNSでは毎日のように集団リンチのような光景が繰り広げられている。

特に、コロナ時代に入ってからは、人々の不安や疲労がかつてないほど高まっていることもあり、常に誰かが誰かに怒っているような状態になっている。

コメンテーターの中にも、怒りという感情を自分の持ちネタの1つにしている人は多い。政治家や犯罪者など、叩きやすい人をやり玉に挙げて、激しい言葉を並べ立てれば、多くの視聴者に共感してもらうことができる。

「私憤と義憤」を区別する厳しい姿勢

しかし、太田は安易にそれをやることはない。私の知る限り、タレントの中で彼ほど私憤と義憤を厳密に区別して話をする人はいない。太田もテレビやラジオで怒りを表明するパフォーマンスをすることはある。ただ、それはすべて個人的な怒りである。自分の大切なものを踏みにじられて、相手が一線を越えたと判断した場合のみ、太田は怒りをあらわにする。

失敗をしたり、過ちを犯してしまった人に対して、正義を振りかざして一方的に叩くようなことはしない。むしろ、そうやって叩かれている側の気持ちにも寄り添い、理解を示そうとする。

川崎で犯人が小学生を含む20人を無差別にナイフで切りつけ、最後に自ら命を絶った通り魔事件が起こったとき、彼に対して「死ぬなら1人で死ね」という意見が出て、それが議論になったことがあった。

このとき、『サンデー・ジャポン』で太田は事件に触れて、「死ぬなら1人で死ね」という主張に対して肯定も否定もせず、ただ自らの体験を語った。太田自身も高校生の頃、何を見ても感動できなくなり、死んでも構わないと思うほど精神的に追い詰められていた時期があった。

そんなときにピカソの絵を見て久しぶりに心から感動することができた。この事件の犯人のような投げやりな気分に陥った人間も、きっかけさえあれば変わることができる。太田はそのように熱く語った。

前述の岡村が失言をした件でも、岡村を批判する意見が目立つ中で、太田は「配慮も想像力も足りない」と発言自体を問題視しながらも、騒動で追い詰められている岡村の精神面を気遣ってみせた。

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