三角屋根の旧駅舎復活、学園都市「国立」の軌跡 西武・堤康次郎、失敗の末に築いた理想都市

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大正末期に竣工した旧駅舎は、建築基準法・消防法といった現代の法律に適合していない。保存にあたり、国立市は旧駅舎を文化財に申請。文化財指定を受けると建築基準法・消防法などの適用が緩和されるので、ほぼそのままの形で保存・移築が可能になった。

完全な復原ではないが、文化財指定を受けたことでクラシカルな雰囲気を残して復原された旧駅舎内部(筆者撮影)

だが、さらに大きな壁として立ちはだかったのが費用の負担だった。部材の保管料も含め、当初の見積もり額は約9億6000万円。JR東日本から協力は得られず、市議会からも否決された莫大な費用を、国立市は国が市町村の都市再生整備計画に対して助成するまちづくり交付金によって賄った。さらに不足分は、市民からの寄付金やふるさと納税を充当している。

莫大な資金と多くの労力を投じてまで保存が進められた理由は、旧駅舎が鉄道の乗降場という枠を超えた存在だったからにほかならない。赤い三角屋根の木造駅舎は文教都市として歩む国立の歴史そのものといえる。

堤康次郎の悲願だった「大学町」

中央線の前身である甲武鉄道が、新宿駅―立川駅間を開業したのは1889年。当時、国立駅は設置されなかった。それどころか、国立という地名もなかった。

国立駅が開設されるのは1926年。駅名は、国分寺と立川の間にあることから、両者から1文字ずつ拝借した。国立一帯はもともと谷保という地名だったが、1951年の町制施行と同時に国立へと改称。駅名に自治体名が影響されたわけだ。それほど国立駅が地域に与えたインパクトは絶大だった。

それは、単に駅が開設されたことで利便性が向上したという話ではない。国立は、西武グループの創始者で、各地の不動産開発を手がけてきた堤康次郎の悲願であった「大学町」を実現させるために、まちづくりに全精力を傾けた地であった。堤が全精力をつぎ込んで開発した国立は、堤の、そして住民たちの理想郷を体現した街でもある。

軽井沢の別荘地開発、渋谷の百軒店、目白の文化村etc……。堤はリゾート地も商業地も住宅地も、自分の意のままに築き上げてきた。順風満帆に不動産開発を推し進めてきた堤にとって不可能という文字はなかった。しかし、唯一、大学町の建設だけはかなえられていなかった。

1922年に約3万坪にもおよぶ郊外住宅地「目白文化村」の開発を手がけた堤は、悲願でもある大学町の建設へと乗り出した。現在、大学をはじめ研究機関・教育機関などが集積する街は学園都市と呼ばれる。しかし、明治末から大正・昭和に形成された国立は“大学町”と称した。

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