三角屋根の旧駅舎復活、学園都市「国立」の軌跡 西武・堤康次郎、失敗の末に築いた理想都市

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こうした経緯だけを追っていくと、国立では順調に大学町が築かれていったように思われがちだが、実際はかなり危うい綱渡り状態だった。

国立の大学町を建設する以前、堤が経営する箱根土地は各地で住宅地を開発していた。箱根土地が手がけていた住宅地のうち、もっとも高評価を得ていたのが前述の「目白文化村」だった。

目白文化村には多くの文化人が居住していたが、箱根土地の社員も多く住んでいた。これは堤が目白文化村の開発を始めるにあたり強制的に居住させたものだが、国立でも同様の強制移住が断行された。目白文化村に住居を構えていた社員は半強制的に国立へと移住。また、堤自身も国立に邸宅を建設し、そこに居を構えた。

そうした支援策だけでは足らず、堤は箱根土地の本社も国立へと移転させた。こうして国立の大学町は箱根土地という不動産開発企業の全面的バックアップを得た。それでもなお、国立の大学町建設は前途多難だった。ゼロから大学町をつくるには、なによりも莫大な資金がいる。箱根土地が新宿で経営していた遊園地「新宿園」を売却するなどして、堤は資金を工面した。

国立を目指した鉄道計画

大学町の計画図は、元宮内省職員で1922年に箱根土地に入社した中島陟(のぼる)が担当した。中島はアメリカやヨーロッパを視察し、その経験をもとに道路・駅などの配置計画を描いた。

当初、中島の作成した国立の都市計画は道路があまりにも幅が広かった。堤は猛反対したが、南満洲鉄道で都市建設を経験した後藤新平が「道路は幅広いほうがよい」と諭したことが後押しとなり、国立駅から南へと延びる大学通りは幅員が24間(約43m)、大学付近は30間(約54.5m)という幅広い道路として結実した。

国立の大学町は現在のJR中央線国立駅を軸に計画が進められたが、着々と築かれていく大学町には鉄道計画も百出した。

東京商科大学学長の佐野善作は、学生の通学環境を整えるために西武鉄道へ新宿―立川間の路線開設を打診。堤が発起人の一人として加わって設立された多摩川急行電気鉄道は、渋谷―国立間の路線を申請している。だが、多くの鉄道が国立の大学町を目指しながらも、すべて実現には至らなかった。

未完ながらも、特に実現性の高かったのが府中駅―国立駅を支線として結ぶ京王電気軌道(現・京王電鉄)の計画だった。

当時の京王は路面電車で、大学通りを通って国立駅前に停留所を設置する青写真を描いていた。当局からもGOサインを得たが、京王は府中駅―東八王子(現・京王八王子)駅間を結んでいた子会社の玉南電気鉄道を1926年に合併し、玉南との直通運転のために設備の改修などを優先。そのため、国立支線は後回しになり、そのまま幻の路線になった。

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