歌舞伎町"深夜イタリアン"が愛されてきた理由 ミナミですべてを失ったシェフの夢の続き

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赤春さんは大阪で生まれた。中学生の頃から非行に走り、15歳で家を出てミナミへ。不良仲間たちと日銭を稼いで遊び、女性の部屋に寝泊まりする日々。転機は18歳のとき、知人に誘われイタリアンレストランで働き始めたことだった。

調理しながらインタビューに応えてくれる店主の赤春さん(写真:筆者撮影)

「ちょうどそのころ、イタリアンがブームになって、ミナミにもたくさん店ができたんです。イタリアンって最先端の感じがして、格好よかったんですよね。飲食店でバイトしてたことがあったし、料理にも興味があったから働き始めたんですが、その店が格好よくて!」

働き始めたのは高級イタリアン。オーナーはイタリアンマフィアのような風貌だったが、料理の腕は超一流だった。作ってくれたカルボナーラの美味しさに衝撃を受け、赤春さんは料理にのめりこむように。客層もハイクラスで、いわゆる成功者が多く、自分もそうなりたいと、赤春さんはイタリアンでのし上がることを決意する。

「それまでガキばっかりの不良の世界にいたのに、金持ちが集まる世界を見ちゃって。俺もあっちに行きたい、料理で稼ぎたいなと思うようになったんです」

同業者が仕事を終えた後に来られる店に

その店で修業し、27歳のときに心斎橋で独立。あかはるの原型となるような、深夜から開く、カウンター席だけの店だった。飲食店で夜中まで働くと、終わってから食事に行きたくても、閉まっている店が多い。そんな赤春さん自身の体験もあり、同業者が仕事を終えた後に来られる店にしたい、という思いがあったのだ。

「評判はよかったですよ」と振り返るとおり、経営は順調だった。だが生活は奔放で、飲む、打つ、買うを地で行くような日々。30歳のとき「相当なごたごた」に巻き込まれ、やむなく閉店することに。全財産も失った。

雑居ビルの地下にある「あかはる」(写真:筆者撮影)

すべてをリセットして再スタートしようと、携帯電話を捨てて過去との関係を断ち切り、無一文で歌舞伎町にやって来たのだった。歌舞伎町を選んだのは、慣れ親しんだミナミの猥雑さによく似ていたから。

「繁華街って、人間の欲望が渦巻いてるじゃないですか。当たり障りのないきれいごとじゃなく、本性をむき出しにできる街。でもその分、人々を吸い寄せる底知れないパワーがあるし、自分の力を試せる場所でもある。やっぱり俺は水が合うというか、繁華街でしか生きられないと思って」

ここ歌舞伎町でイタリアンの店を出したい。そう決意した赤春さんは、開店資金を貯めるべく、イタリアンレストランや焼き鳥屋、バーなどでアルバイトを始めた。住むところがなく、知り合った女性の家に転がり込んだ。生活の面倒も見てもらったため、稼いだお金はすべて貯金。そのおかげで、1年ほどで開業資金が貯まり、あかはるを開店した。

「ちゃんとしたレストランだと、お金持ちとか、来られる人がある程度限定されてしまいますよね。でも、自分みたいなアウトローとか、一般社会になじめない人でも、飲み食いが好きなやつはいっぱいいる。特に歌舞伎町は、そういうやつが多い。そいつらにうまいイタリアンを食わせてやろうかなって思って」

当時の思いを、赤春さんはそう振り返る。

実際、訪れる客は、歌舞伎町で働く人々が中心だった。料理やお酒を楽しむ人もいれば、恋愛や仕事の相談をしに来る人もいる。歯に衣着せぬ赤春さんの言葉が荒療治となり、元気づけられる客も少なくない。なかには、キャバクラ通いのためにお金を横領した人や、逮捕されてニュースに出た人もいるそう。さらに深いエピソードを聞こうとすると、「書けないことばっかりだと思いますよ」と笑う。

このように書くと、無秩序な空間に思えるかもしれないが、きちんとした秩序がある。イタリア料理やあかはるという店に、赤春さんは深い愛情や美学を持っているからだ。空気を読まない、雰囲気を壊す、もめ事を起こすなどの客には、「帰れ!」「外でやれ!」と一喝することもいとわない。

「俺がなぜイタリア料理に引かれたかというと、格好いいと思えたからなんです。だから、格好いいお店をつくりたい、格好いい大人になりたい、と努力したわけで。それにそぐわないお客さんは、ちょっと。『格好いい店に格好いい客として行くんだ』と思って来てもらえればうれしいし、それでお互いが気持ちよくなれれば最高ですよ」

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