ダイハツ「タント」が、N-BOXに勝てないワケ 軽ワゴン史に見る「新しい価値」の重要性
車内で子どもの世話をしやすいよう、ルーフをハイトワゴンよりさらに100mmほど高くし、子育てに忙しい親の負担や心配を軽くするクルマとして他の追随を許さない存在になった。
その対抗馬として、2008年にスズキから「パレット」が誕生した。しかしタントの牙城を崩すまでに至らず、1代でパレットの名は消え、今日の「スペーシア」へ車名を変更してスズキのスーパーハイトワゴンは存続している。
競合が現れたタントは、2代目で左側の前後ドアの支柱をなくし、後席スライドドアと合わせ大きな開口部を実現した「ミラクルオープンドア」を採用するなど独自の商品性を強化し、王座を維持。そうした中、スーパーハイトワゴンを持たなかったホンダが、満を持して投入したのがN‐BOXである。
F1エンジンのエンジニアが開発責任者に
初代N‐BOXの開発責任者(LPL=ラージ・プロジェクト・リーダー)を務めた浅木泰昭(あさき・やすあき)氏は、「競合他車のことは気にしなかった」と語った。狙ったのは、「ミニ・ミニバン」であると言う。
浅木LPLは、それまで軽自動車開発の経験がなかった。1980年代の第2期ホンダF1時代にレース用エンジン開発に携わり、のちに初代「オデッセイ」や4代目「インスパイア」のエンジン開発に関わる。それから企画室へ異動し、N‐BOXのみならず、そこからはじまるホンダの「Nシリーズ」と呼ばれる軽自動車群の開発責任者となるのである。
ホンダは、1960年代のF1参戦以降、十数年の空白期間を経て再挑戦。しかし、1980年代前半は勝てずに苦悩した。あるいは1990年代初頭、ホンダはRV(レクリエイショナル・ヴィークル=三菱「パジェロ」などの車種)を持たず売れ行きが低迷し、倒産の噂まで流れた。
そうした苦境から再生したのが第2期F1エンジンでの常勝という成功であり、初代オデッセイの爆発的な販売であった。
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