1980年代から日本映画はどう変わったのか 大森一樹監督が語る映画人生と銀幕界の変遷

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 ――それで脚本が(乙羽さんの夫である)新藤兼人監督なんですか。

『風の歌を聴け』 (c)1981 オフィス・シロウズ/ATG

俺だって新藤脚本をやったことがあるんだぞ、という感じですよ(笑)。両方とも時代は一緒なんですよ。片やテレビを目指した人を『トットチャンネル』という映画で描き、片や20世紀の映画撮影所がどんなものであったかということを、「女優時代」というテレビドラマで描き出したという。

――そういう意味合いもあって、こういうプログラムになったわけですね。次は『満月』。

これも不運な映画で(笑)。どうかなと思ってみたら、面白かったから、いけるんじゃないかと。

『ゴジラVSビオランテ』こそゴジラ

――これはまだ松竹に、奥山和由さんがいらっしゃったときの映画ですね。

これは映画4本分の資金をファンド的に集めて作られた作品で。この資金を基に映画を4本作ろうということだったんだけど、(黒澤明監督の)『八月の狂詩曲』がおカネがかかりすぎてしまった。4本の予定があと1本しか作れなくなったというので、この映画を作ったという。まあアイドル映画だしね。

その次はタイムスリップものつながりで『ゴジラvsキングギドラ』。これはいちばん正統派で、60年代、70年代のゴジラをちゃんと受け継いでいる映画なのです。でもこの前に『ゴジラvsビオランテ』があって。あれは興行的には評価は高くなかったけど、プロデューサーの田中友幸さんがいちばん評価してくれた映画なの。あの人はアメリカ映画っぽいゴジラをやりたかった人で。だから『ゴジラvsビオランテ』こそ、田中さんが作りたかったゴジラだと思う。

最初、東京現像所で試写を見たときには、僕らもこんなもんかなと思っていたけど、田中さんだけは「これだよ!」と大喜びでしたからね。でも、30年近くたってみると田中さんは先見の明があったんだなと思いますよ。今になって、『ゴジラvsビオランテ』の評価が高いですからね。

――この『ゴジラvsキングギドラ』は『ゴジラvsビオランテ』の次にあたる作品ですね。

そういったわけで、田中さんからは好きなようにやっていいよと全幅の信頼をいただきました。ただこれも、大筋では最後のところにメカキングギドラが出てきて、大勝負を繰り広げるということにはなっていました。メカキングギドラなんてよく考えるなと感心しましたけどね。ゴジラ映画としてはこれが最後のアナログ作品ですね。次の『ゴジラvsモスラ』からハイビジョンになっていきますからね。

――炎もしっかりと本物が使われていました。

やっぱり面白いですよ。うちの学生でもミニチュアで一生懸命作っているのがいますよ。今はCGになっちゃったから、ミニチュアなんてもうなくなるのかと思っていたけど、20歳くらいの子が一生懸命やってるんですよ。やっぱり作って壊すというのが面白いのでしょうね。

――真田広之主演のコミカルなヤクザ映画『継承盃』と続きます。

ずっとゴジラをやっていたので、次の『ゴジラvsモスラ』もと言われていたのですが、結果的に『モスラ』をとるか『継承盃』をとるかということになった。数字的には『モスラ』が入って、こちらは全然入らなかった(笑)。ただこの映画を京都撮影所でやれてよかったなと思いますよね。今、『あかんやつら』って東映京都の回顧本が出てるじゃないですか。ああいうのを読んでいると、この映画史の中に自分もいたんだなと思いますよね。『テイク・イット・イージー』は日活撮影所で、『満月』は松竹大船撮影所。『恋する女たち』は東宝撮影所で、そしてこの『継承杯』が東映京都撮影所でしたね。

――主要な撮影所はほぼ行っているということですね。大映撮影所はなかったんですか?

大映はなかったですね。

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