リベラルも保守も再評価すべき「国家」の意味 「新しい地政学」時代の自由民主主義の課題

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それでは自由民主主義は、どうやって立て直すべきなのか? 先頃訪れたニューヨークのコロンビア大学で開かれた「ポピュリズムとナショナリズム」と題するシンポジウムで、アメリカではあまりにも社会の連帯や市民の絆を弱め、そのため国家を弱体化させてしまったことへの反省が聞かれたことが印象的だった。

アメリカでは保守派とは小さな政府と市場重視の姿勢をとる。国家や政治を信じない彼らは80年代以降思い切った規制緩和と自由化を推進し、それにグローバル化も加わって、市場経済の強者との格差が、極端に大きくなってしまった。

他方でリベラル派の側は、少数民族、LGBT、移民、難民といった少数派の社会的弱者の権利擁護に注力してきた。しかし少数派と多数派市民との連帯を築くよりも、それぞれアイデンティティーを擁護し多様性が強調された。

いずれにせよ、富豪と失業者、多様な被害集団と多数派との社会的分断は深まり、国家という政治共同体の一員として何かを共有しているという意識、もしこれをナショナリズムと呼ぶのであれば、ナショナリズムが左右両方から攻撃にさらされたのである。

異なった個人が集合的決定を民主的な方法で行うには、少数派と多数派をつなぐ「われわれ」という意識が欠かせないのではないか。1つ社会を共有している仲間としての感情的なつながりがあるからこそ、多数決による決定に敗れた少数派も従うのだし、富裕層は貧困層への所得再分配に同意できるのではないか。国家は人権を侵害する危険もあるが、無政府状態では人権も守れないのだから、国家権力を維持するための負担や危険も、なんらかの形で皆が分担する責任もあるのではないか。

新しい地政学の時代に自由は守れるのだろうか

こういう観点から日本を見ると、どんなことが言えそうだろうか? 現在の日本政治では目立ったポピュリスト勢力が不在で、それは日本社会の分断が比較的小さいからではないか、と評価されることがちょくちょくある。格差やポピュリズムについては日本人も問題にするが、アメリカ人の目から見ると大したことではないということなのだろう。

少し前までは「閉鎖的」とか「右傾化」とかと散々だっただけに奇妙な感じもするが、ここに来て「優勢勝ち」状態に自己満足している場合ではもちろんない。日本政治の安定は、多分に民主党政権や野党勢力への幻滅の反映にすぎないかもしれない。

日本でも、財政破綻によって失業者があふれたり、地政学的危機が訪れたりすれば、あっという間に社会の分断が深刻化しても不思議ではない。危機に際して、「国は何をしている!」と叫ぶ声はあがっても、「民主主義国の市民としてどんな責任があるのか」と問う声がはたして出てくるだろうか。

国家や政治家や官僚は糾弾しているだけでよいという姿勢で、新しい地政学の時代に自由や民主主義が守れるのだろうか。国家の意味や市民の責任を語ることは、右翼や軍国主義の独占物ではない。リベラルにも保守にも国家論が必要なはずである。

田所 昌幸 国際大学特任教授

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たどころ まさゆき / Masayuki Tadokoro

1981年、京都大学法学部卒業。1981 - 83年、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス留学。1984年、京都大学大学院法学研究科博士課程中退。1984年 - 87年、京都大学助手。1987 - 97年、姫路獨協大学法学部助教授、教授。1997‐ 2002年、防衛大学校社会科学教室教授。2002-2022年、慶應義塾大学法学部教授などを経て、現職。その間、ピッツバーグ大学ジョーンズタウン校客員教授(1991年)、ニューヨーク市立大学ラリフバンチ国連研究所客員研究員(1993 - 94年)、ウォーター大学客員研究員(2016 - 17年)。博士(法学)。専門は国際政治学。著書に、『「アメリカ」を超えたドル』(サントリー学賞受賞、中央公論新社、2001年)などがある。

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