ゴーンがひた隠しにしてきた「父親とその過去」 レバノン日刊紙を賑わせた父ジョージ

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裁判は1960年10月6日に始まった。法廷はジャーナリスト、見物人、そして、ベイルートや故郷の村から「バス3台とタクシー15台」でやってきた殺害された神父の親戚でいっぱいになった、とロリアンは報じている。ジョージは1人で裁判に臨んだ。共犯者とされる者は逃亡しており、不在のまま裁判が行われた。その共犯者はその後も捕まることはなかった。

1961年1月9日、ジョージはマサド神父殺害の共犯者で、教唆(きょうさ)したと認定された。そして、死刑を宣告された。判決を聞いたジョージはその場に倒れ込んだと、ロリアンは翌日の一面に判決の前と後の顔写真を掲載して報じた。

父親のことはいっさい話さなかった

判決によると、聖職につくことになっていたジョージは、20年前に神学校のベンチでマサド神父と出会った。それから何年も後にナイジェリアのラゴスで偶然再会し、密輸で得られる莫大な利益を約束して神父を堕落させた。

ジョージのせいでマサド神父は、アフリカ、欧州、アジア間で貨幣、ダイヤモンドその他の禁制品を運ぶ、最も「怪しまれない運び屋」になっていた。だが、ジョージは、神父の殺害を決意した。あまりに欲深くなって、ジョージを騙そうとしたからだ。

裁判官は、ジョージが神父の殺害を統率したと結論づけている。ジョージは殺人に立ち会ったが、発砲はしなかった、ともしている。「こうした事情があったこの殺人は、新聞の大見出しを飾り、刑法第549条に従ってジョージ・ゴーンを予謀殺罪で死刑とした」と、傍聴したロリアンの記者は淡々とした筆致でつづっている。

父が死刑を宣告されたとき、カルロスは7歳だった。当時、彼はベイルートにある超名門のイエズス会系のコレージュ・ノートルダム・ドゥ・ジャンムールに通っていた。「イエズス会士と過ごした年月は私にとってとても重要なものだった。私は規律や、競争と卓越の感覚を学んだ」とカルロスは語っている。

小学校のときは手に負えない児童だったカルロスは、中学・高校ではおとなしい生徒になって、よい成績をとり続けた。父親のことは?「その話はいっさいしなかった」と、ある元同級生は話す。別の元同級生は、絶対にその話をしないように、と学校側からたいへん厳しい指示があったことを覚えている。

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