ミルクボーイが「M-1史上最高」にウケた理由 松本人志絶賛!「行ったり来たり漫才」の魅力

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でも、2人の魅力はそれだけではない。駒場が相反する特徴を交互に挙げていくだけなら、そこに笑いが起こる要素はない。駒場の言葉に対する内海のリアクションこそが笑いを生む。内海は、駒場の提示する特徴を受けて、コーンフレークに対して「そこまで言わなくてもいいんじゃないか」というぐらい偏見混じりの熱い主張を展開していくのだ。

例えば、母親が「死ぬ前の最後のご飯もそれでいい」と言っていたというのを受けて、内海は「人生の最後がコーンフレークでええわけないもんね。コーンフレークはね、まだ寿命に余裕があるから食べてられんのよ」と言う。

また、母親が「晩ご飯で出てきても全然いい」と言っていたという話に対しては、「ほなコーンフレークちゃうがな。晩飯でコーンフレーク出てきたらちゃぶ台ひっくり返すもんね。コーンフレークはね、まだ朝の寝ぼけてるときやから食べてられんのよ。食べてるうちにだんだん目が覚めてくるからちょっとだけ残してまうねん」と言う。

ここで内海がコーンフレークについて言っていることは「言われてみれば確かに一理あるが、そこまで強く言うほどのことではない」と多くの人が感じるようなことだ。だからこそ、角刈りで小太りのコミカルな外見の内海がそれをここまで力強く主張することで、おかしさがこみ上げてくる。

ミルクボーイの「面白さの本質」

2本目の漫才では、駒場の母親が好きな菓子を思い出せないというところから会話が始まる。もなかっぽい特徴とそうではない特徴が交互に挙げられて、「行ったり来たり漫才」が展開される。

駒場が「関係性で言うともみじ饅頭のいとこらしい」と特徴を言うと、内海は「ほなもなかやないかい。何となく似てるやろ、あれ。もなかの親父の弟の子供がもみじ饅頭やねん」と菓子の血縁関係について自説を述べる。さらに、「もなかの親父が京都に単身赴任したときにできた子供が八ツ橋とおたべやねん」「もなかの双子がもなか」「もなかとアイスの子供がモナ王」などと、もなかを中心にした家系図をよどみなく説明してみせる。1本目の漫才よりもさらに内海が暴走している。

いわば、ミルクボーイの漫才では、冒頭で謎解きの推進力で前に進むと見せかけて、駒場が2つの方向性の特徴を次々に挙げることで左右に揺さぶる。さらに、内海の熱っぽい主張によって、左右に揺れた車はそのまま道路を外れてあらぬ方向にまで進んでいく。当初予想もしていなかった荒々しい蛇行運転の危険な暴走。それがミルクボーイの漫才の面白さの本質である。

この漫才が面白いものとして成立するには、何と言っても題材選びが鍵になる。そこそこ有名で誰でも知っているものであると同時に、王道ではない存在感の薄いものでなければならない。彼らはこの形の漫才ネタを数多く持っているが、決勝で演じた2本のネタが題材としてはベストだった。

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