初詣でにぎわう「京急大師線」、波瀾万丈の歴史 参拝のついでにたどれる廃駅や廃線の跡も
結局、未成線となったものの、矢向延長線用地は国によって買収されることなく、戦後も鶴見臨港鉄道が所有し続けた。現在、東亜リアルエステートは、鶴見駅の駅ビル「ミナール」をはじめ、この矢向延長線用地を基盤として不動産事業を行っているのだという。
さて、話を大師線に戻そう。海岸電軌廃止後、大師線が再び延伸されたのは、太平洋戦争中の、いわゆる「大東急」体制の下でのことだ。
太平洋戦争勃発後、軍需工場の貨物・工員輸送の需要が高まる中、「(川崎市域)南部の海岸地域一帯には多数の軍需工場があった関係から、この地域の交通問題の解決は、軍需生産力の増強上、重要なものであるにもかかわらず、交通機関としては、鶴見臨港バスがあっただけである」(『東京急行電鉄50年史』)という背景から、大師線延伸が望まれたのだ。
終戦間際に延伸されたが・・・
大師線の延伸は、川崎市も申請したため川崎市と東急の競願となり、「運輸通信省で審理を進めた結果、両者で区間を分けて建設することとなり」(『東京急行電鉄50年史』)、東急が大師から東回り、川崎市が古川通から西回りで工事を進め、桜本三丁目で連絡する計画になった。
東急が海岸電軌の廃線跡の一部(大師―産業道路)も利用しつつ桜本駅(現・川崎市バス・京急バスの「桜本」バス停付近)までの延伸を完了させたのは、終戦間際の1945年1月7日のことであり、終戦後の同年12月6日には、西回りで桜本まで延伸した川崎市電との接続を果たした。現在、桜本駅跡に近い桜川公園には、川崎市電の車両が保存されている。
その後、大師線は1948年に京浜急行電鉄が独立し、京急大師線となった後、1952年に塩浜―桜本間を川崎市電に譲渡した。そして、1964年に塩浜操車場(川崎貨物駅)ができると、その敷地と路線がかぶったので、小島新田―塩浜間を休止(正式廃止は1970年)し、現在の京急川崎―小島新田間の路線が確定した。
このように大師線の沿線周辺を散歩するだけで、戦前・戦中・戦後の世相の流れが見えてくる。
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