初詣でにぎわう「京急大師線」、波瀾万丈の歴史 参拝のついでにたどれる廃駅や廃線の跡も
では、初代の六郷橋停留所はどこにあったのかという疑問が湧く。そこで、1926年12月に測図された川崎の地形図(川崎市立中原図書館所蔵)を見てみよう。
当時の大師線は、川崎駅を出た後、現在の「ラーメン二郎京急川崎店」付近で進路を変え、「本町」交差点付近から旧東海道上を進む路面電車だった。地形図には、旧東海道上に存在した六郷橋停留所と京浜国道(現・国道15号第一京浜)を平面交差する線路もはっきりと描かれている。
大師線は、この地形図が測図された直後に京浜国道の改修に伴い現在の専用軌道に経路変更され、六郷橋駅も新線上に移転した。1926年12月22日付の横浜貿易新報に、以下の記事がある。
「京浜電鉄の川崎大師線は新国道との平面交差を避ける為め地下線工事中であったが此程竣工(中略)二十一日の納めの大師から開通したが国道平面交差の危険がなく(後略)」
地形図は、国道改修前の状況を記録するために測図したのかもしれない。
国道上を走っていた大師線
なお、当時は、旧東海道における六郷(東京都大田区)と川崎宿を結ぶ「六郷の渡し」も存続していた。『川崎市史通史編3』によれば、明治初期の1874年に六郷橋(架橋した人物の名前から「左内橋」と称された)が架橋され、六郷の渡しは一度廃止されたが、その後、橋は洪水でたびたび流され、そのたびに渡船が復活したという。
六郷の渡しが最終的に廃止されたのは、1925年に鋼鉄アーチ橋(先代の六郷橋)が完成したときであるというから、それまでは船で多摩川を渡ってきた客が電車に乗り換える姿も見られたはずだ。
さて、開業当時の大師線は六郷橋停留所を出発した後、川崎大師に向かって現在の国道409号上を走っていた。国道409号は、もともとは1888年に川崎大師平間寺によって建設された「大師新道」と呼ばれる道路だった。
道路上に軌道を敷設するにあたって、政府からの命令書には「道路幅員は単線の場合5間(約9m)以上、複線では6間(約11m)以上」とあったが、大師新道は幅員4間しかなかったため拡幅工事を行うとともに、道の両側に植えられていた桜並木の移植・保存も行われたという。
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