1964年東京五輪を機に変貌を遂げた渋谷の街 2020年以降の東京はどのように変化するのか

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原宿駅に近い代々木公園は、戦前は代々木練兵場で、戦後は駐留軍の将校用住宅=ワシントンハイツとして接収され、1959年にオリンピックの招致決定後の1961年に接収が解除。

オリンピックに際しては、国立代々木競技場、選手村、国際放送センターなどが建設されたが、それ以前のワシントンハイツには主に米兵やその家族が居住していたため、原宿の街には当時はめずらしかった西洋人が往来し、都内でもしゃれた雰囲気が漂うファッションの街の下地ができていた。

1964 年五輪の選手村だった代々木公園には、選手が滞在した建物が一棟保存されている(筆者撮影)

その後、静かな住宅地だった表参道や竹下通りなどにクリエーターが集まり、ブティックやカフェなどができて、1970年代、1980年代を経て、世界のファッションタウンとなる原宿の街へと変化していく。

また、ワシントンハイツを転用したオリンピックの選手村は、大会後に代々木公園となったが、今でも1棟だけ、選手が滞在した建物が保存されている。

駒沢公園周辺はどうなったのか

レスリングやサッカー、バレーボール、ホッケーの会場となった駒沢公園周辺も、それ以前は農地や原っぱだった土地。戦前に駒沢ゴルフ場となり、戦時中には都市部で空襲被害があった場合の避難場所となる防空緑地に。戦後は食料生産のための農耕地となっていた場所だった。

しかし東京オリンピックでは女子バレーボールの「東洋の魔女」が活躍し金メダルを獲得したことで、その栄光の地をこの目で見たいと、大会後は日本国中から観光客が訪れる盛況となり、雑誌や映画などの撮影場所としても利用されるようになる。

駒沢会場の体育館。ここで日本女子バレーボールが金メダルを獲得

現在、2020年オリンピック会場としては、1964年五輪時の会場を極力用いるレガシープランにより、国立代々木競技場や日本武道館などが再び会場となるほか、神宮外苑の国立競技場が建て替えられ、湾岸部には体操会場、水泳会場、選手村などの新たな会場施設が建設され、それらを結ぶ道路などインフラが整備されている。選手村は大会後、高級マンションとして整備、分譲されていく計画だ。

2019年には、虎ノ門のホテルオークラ、日本橋のCOREDO室町テラスや渋谷スクンブルスクエアなど大型の商業施設が次々に開業した。渋谷や池袋など、いつの間にか街の風景や駅構内、街路などが大きく変化しているエリアもあり、都心を歩くたびに驚きを感じる。

2020年東京オリンピック・パラリンピックが契機となり、その会場エリアと関連施設が10年後、そして50年後のその土地をブランド化させていくことは、1964年五輪の例からも、大いに予想できる。

鈴木 伸子 文筆家

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すずき のぶこ / Nobuko Suzuki

1964年生まれ。東京女子大学卒業後、都市出版『東京人』編集室に勤務。1997年より副編集長。2010年退社。現在は都市、建築、鉄道、町歩き、食べ歩きをテーマに執筆・編集活動を行う。著書に『中央線をゆく、大人の町歩き: 鉄道、地形、歴史、食』『地下鉄で「昭和」の街をゆく 大人の東京散歩』(ともに河出書房新社)『シブいビル 高度成長期生まれ・東京のビルガイド』(リトル・モア)などがある。

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