禅僧が教える「心をラクにする」気持ちの整え方 「置かれた場所」で咲けなくたっていい
たとえ、自分でその場所を選んだのだとしても、予想に反して「たまたま」つらい場所だったということはよくあります。それならば、別の場所を探してもいいし、もうしばらくその場所に居続けると決めてもいい。そこにいるかいないかは、自分自身で選べます。本当につらいのは、その選択の余地がないときです。
「自分の居場所がどこにもない」と言う方がいますが、居場所がなくて当たり前なのです。すべては「仮の宿」であり、一時的な場所ですから。そこに行けば一生安心と言える居場所など、この世にはありえません。
「いや、今いる場所で咲こうとするくらいの根性がなければダメだ」と言うのは、「今いる場所」や「自分」が絶対的な存在だと勘違いしているだけです。「誰か」の価値基準を無条件に受け入れて、そこで咲けるよう努力しろ、というのは、仏教の立場ではかなりおかしな話なのです。
置かれた場所で咲かなくてもかまわない。ただ、やり方によっては咲くこともある。その程度のスタンスで「置かれたところ」にいれば十分だと私は思います。
この世に「たまたま」生まれた存在
人は誰しも、自分で望んで生まれてきたのではなく、この世に「たまたま」生まれた存在にすぎません。
「せっかく生まれてきたのだから、意味のある人生を送りたい」と言う方がいますが、「せっかく」はなく、「たまたま」生まれてきただけです。
もちろん、「やりがいのある仕事」や「生きがいに満ちた毎日」がある人は、その日々を謳歌していただければいいでしょう。しかし、「生きがいが感じられない」と、悩むほどの問題ではありません。そんなものがなくても、十分生きていけます。
「社会と関わりながら、充実した毎日を送りたい」「誰かの役に立っている実感を得たい」「自分の使命を見つけて、人の役に立ちたい」
そう言う方には、具体的に「誰」の役に立ちたいかを尋ねます。すると、「誰と言われても……」とほとんどの方が口ごもるのです。「人の役に立ちたい」と思ったときは、自分がいったい「誰」を大事にしたいのかを考えていけばいい。ごく簡単な話です。現実的に言えば、大切にしなければならないのは、自分と縁の深い人間、身近にいる人間でしょう。
生きがい探しをしたくなるのは、現状に不満や問題を抱えているときです。問題を直視して、人生で不具合を起こしているところを調整すれば、わざわざ無理をして「生きがい」を探す必要はないのです。
「誰も私のことをわかってくれない」「あの人のことは、どうしても理解できない」
このように悩む方がいますが、人が理解し合えないのは当たり前です。まず、自分をわかってほしいと思わないことです。自分だって自分のことをよくわかっていないのに、他人にわかるわけがありません。自分以外の人間には絶対になれない以上、他人のことは決して全部わからないのです。
もし、相手のことをわかったと思うのなら、あるいは、自分を理解してもらえたと感じるのなら、それはしょせん誤解にすぎません。
それでも友達が多いほうが毎日楽しいし、人脈も広いほうがいいと考えるのなら、もちろんその人生を楽しめばいいでしょう。しかし、もし人間関係にわずらわしさを感じているのなら、人脈は言うに及ばず、友達も必要ありません。むしろ、友達などつくらないほうがいいのです。
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