意外!織田信長の気遣いあふれる手紙の中身 信長に学ぶ相手の心をつかむ文章3ポイント
さらに、自分のこの手紙を秀吉にも読ませたらいい、と言い添えました。暗に、「私はそなたの味方だ」と信長は言っているわけです。主君の信長から言われたとあれば、秀吉も女道楽を当面は控えてくれるかもしれない……。信長が、家臣の妻である自分のことをここまで思ってくれた配慮に、おねは心から感激したでしょう。
これは、冒頭で紹介した、「相手の心をつかむ3要素」をすべて満たした手紙といえそうです。しかも、この手紙は「平仮名」で書かれています。当時の女性でも読めるように、と信長が配慮しているのです。署名も「のぶ」ですから、申し分なしといえるでしょう。
柴田勝家に送った「掟条々」
では次に、織田信長が筆頭家老である柴田勝家に対して送った「掟条々(おきてじょうじょう)」と呼ばれる文書を紹介しましょう。これは天正3(1575)年9月に、信長が勝家に送ったものです。本来、9カ条にわたりますが、その9カ条目を現代語訳したものが次の文章です。
このおきてが書かれたのは、越前・加賀の両国で手を焼いていた本願寺門徒を、織田家の北陸方面軍を率いた勝家が、ようやく掃討したタイミングでした。
合戦で最も戦功のあった勝家に、信長は越前八郡を与えました。のちの石高でいえば49万石(現在の年収に直すと約53億9000万円、以下同)です。彼に「与力」としてついていた前田利家、佐々成政、不破光治の3人にも恩賞が伝えられました。3人はおのおの、のちの石高でおよそ3万石(約3億3000万円)をもらいました。先ほどの手紙(掟)は、処遇の決まったあと、柴田勝家以下3人の与力に宛てたものです。
当時、勢力を拡大していた織田家の家臣は、新しい領土を獲得するたびに、新領主となった土地へ赴任しました。羽柴秀吉は近江長浜城に12万石(約13億2000万円)、明智光秀は丹波と近江に合わせて34万石(約37億4000万円)、丹羽長秀は若狭に8万5000石(約9億3500万円)、滝川一益は伊勢長島城主でおよそ10万石(約11億円)、といった具合に任じられました。
城と領地を任されたとはいえ、家臣たちに自治が許されていたわけではありません。「織田帝国」の一部として、統治を任されたわけです。だからこそ信長は、家臣たちをしっかり管理していました。その織田家の「統治マニュアル」ともいうべき文書が、先に紹介した「掟条々」なのです。現代風に言えば、織田グループの越前支社を任せた柴田勝家に対して、支社長としてのあり方を説いたものです。
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