都心直通実現の相鉄、米軍が阻んだ「幻の新線」 「JR直通」の60年前に浮上した計画の経緯

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沿線自治体も相鉄の計画に好意的だった。

申請翌年の1959年3月、神奈川県知事は運輸大臣に対し「本計画の実現により市街地開発区域と既成市街地との連絡、通勤人口の消化が円滑に行われ(中略)県としても本路線開発の必要性を痛感いたすものであり、本免許申請に関する御高配を賜りたく申達いたす次第であります」とした意見書(国立公文書館所蔵)を送付。相鉄に対し新線の営業を許可するよう要望している。

国立公文書館が所蔵している杉田海岸―二俣川―原町田間の運行図表(筆者撮影)

ところが、この計画は具体化しなかった。『相鉄五十年史』は「上瀬谷通信隊の電波障害問題などにより実現が困難になったため」としている。

米軍の通信施設が障壁に

相鉄本線の瀬谷駅から北へ2kmほどの上瀬谷には、かつて米軍の通信施設があった。もともとは日本海軍の倉庫施設で、終戦後は米軍が接収。いったんは接収が解除されたが1951年に再接収され、通信施設が整備された。

この施設では、旧ソ連や北朝鮮などから発信される電波の傍受や暗号の解析が行われていたようだ。このため日米合同委員会は1960年、上瀬谷通信施設とその周辺を「電波障害防止制限地域」に指定することで合意した。

電波をクリアに受信するためには、ノイズの原因となるものを極力減らさなければならない。近くに住む農民が農地転用で家を新築しようとしても認められず、電熱を使った温室の設置や、モーターを使ったポンプの使用にも制限が加えられた。蛍光灯の使用も許されなかったという。これでは、通信施設の東側を通るはずだった新線の建設も難しい。

新線のルートは別の鉄道会社やバス会社の営業エリアにも食い込んでおり、『相鉄五十年史』も「電波障害問題“など”により実現が困難」としているから、理由は電波障害だけではなさそうだが、いずれにせよ動きが取れない状態に陥ってしまった。

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