初詣「二礼二拍手一礼」が古い伝統という勘違い 昨晩聞いた「除夜の鐘」も実は歴史が新しい

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そもそも先に触れたとおり、年齢が上の人間にとって、それはどこか違和感のある行為でもある。しっくりこないからこそ、このしきたりに従わないという人がいてもおかしくはないだろう。

なぜ違和感を持つのだろうか。それは、二礼二拍手一礼が、もともと神職の作法であり、しかも、それを行う前に玉串を捧げる行為が実践されるべきものだからである。本来、二礼二拍手一礼は、単独で行うものではない。玉串奉奠(ほうてん)に伴う作法なのである。(43ページより)

一般の人間でも、神社で「正式参拝」を行うときには玉串を捧げる。榊(さかき)を神前に供えるわけで、二礼二拍手一礼は、そのあとに行われるのだそうだ。

つまり、玉串を捧げることと二礼二拍手一礼はセットになっているということだ。実際、これをやってみると、作法に流れがあり、違和感を持つことはなくなるという。

ただし、社殿の前で参拝をするときには、いきなり二礼二拍手一礼をするという形になる。その前に「賽銭箱に賽銭を投げ入れる」という行為があるため、それが玉串を捧げることの代わりと考えることも不可能ではないだろうが、しかし玉串と賽銭とでは意味が異なる。

具体的にいえば、玉串を捧げるときには、供える前に祈念する。その行為があることで、神に相対しているという感覚が生まれるわけだ。しかし、賽銭を投げ入れるという行為にはそこが欠けているというのだ。

社殿の前で、ただ二礼二拍手一礼をするというときには、祈念するという部分がない。そのため、参拝者のなかには、二拍手をした後にそのまま合掌し、祈念する人たちがいる。そうしないと祈念しないまま参拝が終わってしまうからだ。祈念する箇所を含まない二礼二拍手一礼は、神社に参拝する作法として果たして好ましいものなのだろうか。私は、そこに強い疑問を感じる。(44ページより)

その作法に「祈念する」という行為が欠けていることを、二礼二拍手一礼の作法を推奨している神社や神社本庁の側は、十分に検討してきたのか? 著者はそのことについて疑問を投げかけている。ただ、正しい作法というものを指導することによって、自分たちの権威を示そうとしてきただけなのではないかと。

東京都神社本庁も作法の存在を否定

東京都神社本庁のウェブサイト内の「参拝の作法」というページには、「私たちが神社にお参りする際の作法には厳格なきまりはありません。敬意の表し方は人それぞれですし、参拝の作法も神社や地域によって特色があります」という記述がある。

そのことについても著者は、「実は、神社庁の方針に対して密かに抵抗しているからではないだろうか」と推測している。

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印南 敦史 作家、書評家

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いんなみ あつし / Atsushi Innami

1962年生まれ。東京都出身。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。「ライフハッカー・ジャパン」「ニューズウィーク日本版」「サライ.jp」「文春オンライン」などで連載を持つほか、「Pen」など紙媒体にも寄稿。『遅読家のための読書術――情報洪水でも疲れない「フロー・リーディング」の習慣』(PHP文庫)、『いま自分に必要なビジネススキルが1テーマ3冊で身につく本』(日本実業出版社)『「書くのが苦手」な人のための文章術』(PHP研究所)、『先延ばしをなくす朝の習慣』(秀和システム)など著作多数。最新刊は『抗う練習』(フォレスト出版)。

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