パール・バックの遺作が語る彼女の人生の意味 死後40年で発見された「終わりなき探求」

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バックの幼少期、1890年代の中国では、列強による侵略に対する民衆の怒りが爆発して暴動が頻繁におこり、1900年の義和団の乱でそれは最高潮に達した。各地で多くの宣教師やキリスト教に改宗した中国人たちが殺害され、当時8歳のバックは母キャロラインと忠実な乳母の機転によって危機を逃れている。

1908年に西大后が没し、国内の動揺は1911年の辛亥革命による中華民国成立へと導かれていった。その後、国民党と共産党による内戦状態となり、1927年に南京事件が勃発し、この時もバック一家はかろうじて襲撃を免れた。

1917年に農業経済学者のロッシング・バックと結婚、1920年に長女キャロルがフェニルケトン尿症という遺伝的な病気を持って生まれ、生涯、脳に障害が残る。キャロルが10歳になるまで、バックは自宅で育てたが、ついにアメリカのニュージャージーにある施設に預ける決断をする。

皮肉なことに、娘の療養費を稼ぐことが、彼女が本を書く動機となり、『大地』がベストセラーになってその目的は果たされる。1950年、58歳のときに、婦人誌『レディーズ・ホーム・ジャーナル』に知的障害の娘の物語を書き、同様の立場の母親たちの共感を呼んだ。

アメリカに永住帰国後、公民権運動を着々と進める

1934年に42歳のバックはアメリカに永住帰国し、公民権運動に早々に着手した。一方、日本の1930年代はどんな時代であったかというと、1932年の満州国成立、1936年の2.26事件、1937年の日中戦争勃発に向かって日本が中国大陸への進出を深め、国家社会主義的な勢力が強くなりつつあった。

1935年、当時の黒人の批評家の数名は、『大地』を、人種偏見に反対する提言の込められた作品と解釈している。

第2次世界大戦のさなかの1942年、パール・バックは軍隊による人種差別や、軍事産業における黒人差別に対する抗議運動を行っていたが、1942年のマディソン・スクエア・ガーデンのNAACP(アメリカ有色人種地位向上委員会)の集会で、当時の会長ウォルター・ホワイトは5万人の聴衆に向かい、「黒人の現状を理解している人間はふたりしかいない。両方とも女性で、ひとりはエレノア・ルーズベルト大統領夫人、もうひとりはパール・バックである」として、バックを公民権運動の指導者として評価している。

1949年には、米国公民権運動について、エスランダ・ロウブスンと共著で『黙ってはいられない』を出版した。

米国に永住帰国した2年後、バックは女性の権利の擁護に乗り出した。1930年代および1940年代は、男女同権修正案運動を、全米婦人党(NWP)とともに推進している。1941年にジェンダーの問題に関するエッセイ集『男とは女とは』を出版し、ニューヨーク・タイムズ紙は、「ヴァージニア・ウルフの本と同様にフェミニズムに関して重要な作品」と評した。

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