「落ち着きのない人」の仕事が実は効率的なワケ 効率を追求しても結局仕事が捗らない理由
作品のタイトルを考える場合も、とにかく時間をかける。でも、ずっと何時間も考えるのではなく、10分くらいで切り上げて、別のことをする。ただ、ときどき思い出すから、そのつど1分ほど考える。良い思いつきは、別のことをしているときに突然表れる。本当に良いものはピンとくるから、「ああ、これだな」とわかる。
思いついたことを、メモはしない。メモしないと忘れてしまうようでは、インパクトがないわけで、そもそもアイデアとして失格だからだ。
思いついたときは、それを過剰に評価する。時間が経つと、それほどでもないな、と冷静に見ることができる。だから、メモをわざとしないで、忘れるか忘れないかという篩(ふるい)にかけて、アイデアを吟味しているのである。
思いついたものを、「ああ、これだな」と評価することは、発想とはまた別の思考である。こちらは、経験やデータに基づいた計算だ。沢山のものを思いつき、それらを使ってきた経験から、しだいに洗練された評価ができるようになる。
初心者には、この思考がないから、思いついても、良いか悪いかがわからない。したがって、思いついたものを経験者に見せにいく、というのが仕事の仕組みとしてある。幾つも、良いか悪いかを教えてもらううちに、自分でもだいたいわかってくるだろう。
求められる才能は散らかったもの
この良いものと駄目なものの判定は、「方法」がある程度確立できる。抽象的であるが、方法論が語れる。経験者はこれを教えてくれるだろう。だが、その判定ができるからといって、発想できるわけではない。思いつけるかどうかは、また別の才能だからだ。
このことは、編集者には、売れる小説がわかっていても、自分でそれを書くことができない、という事実にもつながる。創作には、最初の思いつきが、絶対的に必要なのである。
たとえば、小説だったら、作者がオリジナリティ溢れる作品を書けば、文章が酷いとか、表現が変だとか、そういった瑣末(さまつ)な部分は、すべて編集者が直せる。そういったサポートができる、経験も能力もある人が沢山いる。でも、めちゃくちゃでも良いから、最初に発想を書き上げる人が、求められているのである。
出版社が欲しい才能は、整っている必要はまったくない。むしろ、散らかったままの作品の方が良い。こぢんまりとまとまっているとか、売れそうな要素を上手に取り入れているとか、人気が出ている既成作品に似ているとか、そういったものが求められているのではない、ということである。
そうなると、戦略を立て、こうすれば売れるものが作れる、という手法では駄目だという結論になる。実はそうは言い切れない部分もあるけれど、おおむねこの傾向にあるといっても良いだろう。戦略や修正は、もう少しあとの話であり、装飾的な部分で活かせる。あくまでも、本質は最初の発想にある。
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