小学生の学びに見えた承認欲求との付き合い方 果てのない山登りのようだが成長の糧にもなる
もっとも、担任のボクからすると、彼らがさらに一皮むけるための頑張りが見られるのはむしろここから。本領発揮です。
「ご褒美」から「プライド」へ。一時的な停滞期間を経て、クラスの成長はまた盛り上がりを見せます。
このように大人も子どもも関係なく、みてみて欲は、一瞬は満たせても、その満たされた状態はアイスが溶けるみたいにしてすぐ消えてしまう。
満たされる瞬間はあるけれど、ずっと満たされ続ける状態は続かない。これがみてみて欲の本質的な正体だと思っています。
「みてみて欲」は継続的努力のエネルギーになる
こんなふうにして毎日子どもたちと一緒に教室で学び続けてきた経験から、なんとなく感じていることがあります。
みてみて欲って、どうも「意欲」の一種なのではないか?
もちろん、専門的な見地からすると誤りがあると思うのであくまでも私見ですが、これがボクの教師としての体感です。
ちょっとマイナスイメージもあるかもしれない「承認欲求」も、人が、いまの自分とは違う力を身に付けて、より高い別のステージへ行くための意欲の一種と捉えれば、なかなかすてきな感じがするんです。
そもそも100%満たされることはないから、「完全に満たすこと」を目的にするのは不毛だけれど、「みてみて」という思いが、その人が前向きに努力や工夫をすることにつながるのなら、みてみて欲にも利用価値がありそう。
満たされるために、みんな努めているけれど、本当に満たされきってしまったら、そこで成長もやる気も、ストップしてしまう。
つまり、みてみて欲が残っているかぎり、ボクたちは成長し続けられるのです。
みてみて欲を満たすために努力していると、多少なりとも満たされる瞬間があります。先ほどのアイスやバッジですね。
仕事がウマくいってボーナスが上がったり、SNSで「いいね!」の数が増えたり、大人にとっても大なり小なりいろいろなパターンが存在すると思います。そして、その「ちょっと満たす」の蓄積がさらなる意欲の引き金となり、もっと高いレベルに向けて頑張ろう!という気持ちになります。
すぐ野球で例えるなと言われるんですが、若いプロ野球選手が、シーズン2割9分の打率を残したとき、「来年は3割打者を目指そう!」と、より高い目標を掲げているイメージです。
ボクは思うんです。承認欲求は、決して満たされない。
満たされた状態が100%だとして、60%から70%、70%から80%へ引き上げる努力を続けたとしても、満杯の100%になることってありえないんじゃないか?
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