マスターも、カウンターの中の奥さんも、そして私も。店の中にいる全員が、静かにご婦人の話に耳を傾ける。ご婦人は目の前のクリームソーダのことなんてすっかり忘れてしまったかのようにおしゃべりに夢中だ。アイスクリームは少しずつ溶けて、周囲を泡立たせながら沈んでいく。
「商売もどんどん難しくなってしまって。あの頃私達が住んでた家は、よその人の家になりました。でも、まだ取り壊されずに残ってるんですよ。数年前、兄たちと家の前まで見に行って一緒に泣きました」
長い時間を経てきた人でなければ語れない、静かで力強い物語に打ちのめされる。すると突如、マスターの奥さんが沈黙を破った。
「……あの、ずっと気になってたんですが、クリームソーダ、溶けてますよ?」
ご婦人ははっと思い出したような顔をしてクリームソーダに目を落とすと、あらあらと恥ずかしそうに顔を覆い、顔を赤らめて笑った。
ご婦人の目の奥に見えた本物の好奇心の光
聞けばご婦人は84歳だという。若い。しかしそれだけでは到底表しきれない、不思議な魅力をまとった人だった。
彼女の元には毎日のように友人達から、食事やお茶の誘いがあるそうだ。しかし全員と個別に付き合うには時間もお金も足りないので、しばらく前から月に何度か、友人を一同に集めた食事会を開くことにしたそうだ。
「友達と、できるだけ行ったことない場所に行こうとおもてるんです。とにかく面白いんですよ、知らない場所に行くのも、人の話を聞くのも。……で、おたくは何をしてはるんです?」
ふいに問いかけられたとき、私を真っ直ぐに見据えたご婦人の目の奥に、決して偽りではない、本物の好奇心の光を見た気がした。これほど多くの人と、長い時間の織りなす壮大な物語を受け止めながら、それでもなお、新しい物語を貪欲に欲する。
私のこれまでの人生の、実に半分近くを費やしてきた、親業。その一番大事なときが、少しずつ終わりにさしかかっている。そんな折の京都で出会った彼女は、私にひとつの大きな希望を見せてくれた。
どうしても気になったクリームソーダの存在をたちまち忘れてしまうほど、次から次に見たいものが現れる、そんな人生を生きていくことはできる。いくつになっても、いつまでも、終わらない物語の中に生き続けることはできるのだ。
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