MMTの命題が「異端」でなく「常識」である理由 「まともな」経済学者は誰でも認める知的常識

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しかし、本書でも説かれているMMTの主張とされる次のような事実命題は、実は異端でもなんでもない。まともな経済学者なら誰でも認める知的常識の類いであって、新奇なところは何もない不変の真理である。

・通貨発行権のある政府にデフォルトリスクはまったくない。通貨が作れる以上、政府支出に財源の制約はない。インフレが悪化しすぎないようにすることだけが制約である。

・租税は民間に納税のための通貨へのニーズを作って通貨価値を維持するためにある(*)。総需要を総供給能力の範囲内に抑制してインフレを抑えるのが課税することの機能である。だから財政収支の帳尻をつけることに意味はない。

・不完全雇用の間は通貨発行で政府支出をするばかりでもインフレは悪化しない。

・財政赤字は民間の資産増(民間の貯蓄超過)であり、民間への資金供給となっている。逆に、財政黒字は民間の借入れ超過を意味し、失業存在下ではその借入れ超過(貯蓄不足)は民間人の所得が減ることによる貯蓄減でもたらされる。
MMTは、課税で貨幣というものを受け入れるニーズが質的に作られる論理次元と、課税で総需要が抑制されて貨幣価値が量的に維持される論理次元を区別する。しかし前者の次元の論理では、民事契約の司法的保護を自国通貨取引に限るとか、賃金を自国通貨で払う義務にするなどでも貨幣を受け入れるニーズは作られるはずだが、それ自体にインフレを抑える力がない以上、課税なくこれらの仕組みだけで貨幣システムを維持するのは困難だろう

ニューケインジアン左派で、イギリス労働党経済顧問委員会委員のサイモン・レン=ルイスも、MMTの学説全般について、基本的には、標準的マクロ経済学の考え方から出てくることと同じことを言っていると繰り返し評している(「MMT: not so modern」「MMT and mainstream macro」)

しかしそのうえで、MMTの論者が政府取引の会計的細部にやたらとこだわるとの感想を述べ、そのことにいささか閉口している様子である。これは私もまったく同じ感想である。

さらに言えば、基本用語の使い方に一般の経済学とは違う独特なこだわりがある。とくに、本質論を直截に現象的な次元の議論に適用して、本質と矛盾する現象形態に即したものの言い方を排撃する傾向が感じられる。

例えて言えば、マルクス経済学を初めて学んで、利子も地代も労働の搾取が源泉だと把握したばかりの大学1年生の学生活動家が、利子を出資の報酬と扱ったり地代を土地提供の報酬と扱ったりして議論する言い方に、いちいち噛み付く姿に似た印象がある(プロのマルクス経済学者は、利子の源泉は労働の搾取と把握したうえで、現象的次元では利子を出資の報酬と扱う現実に則った説明を平気でするものであるが)。

「MMT」ケルトンとクルーグマンの対話不能な論争

そのことがよくわかる例として、最近見られた、有名なニューケインジアン左派のノーベル賞経済学者ポール・クルーグマンと、ケルトンとの間に交わされた論争を概観しよう。

クルーグマンはこの中で、赤字財政支出政策ばかりに頼って金融緩和政策を言わないMMTを批判して、両者の間には代替関係があると主張している。

彼は、ゼロ金利のときにはMMTの言うこともあてはまるが、プラスの利子が付いているときには、赤字財政支出をすると、金利が上昇して民間投資が減ってしまうと言う。いわゆる「クラウディング・アウト」効果である。同じ完全雇用を達成するにも、赤字財政支出はほどほどにして、残りは金融緩和で金利を下げて設備投資を増やすことで実現することも必要になると言うわけだ。

ケルトンはこれに対して、逆に、赤字財政支出をすると金利は下がるのだと反論している。そして、金利が下がりすぎて困るから、望ましい水準にまで金利を引き上げるために、当局は国債を売るのだと言う。

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