心が楽になる「どうしても嫌な人」のあしらい方 しんどいときの対処法を仏教で考えてみた
悪く生きようと思ってる人が諸行無常の感覚を取り入れると、どうせこの便所の戸もはかないものなんだから、いつかは壊れるわけだし、今ここでパンチして壊しても構わないだろう、となるかもしれません。それはいけませんよね。それが、よく生きようとしてる人なら、この便所の戸は大切なものだから本当に機能しなくなる最後の瞬間まで大事に使おう、となりますよね。
しかし、よく生きようとしてる人でもめちゃめちゃ漏れそうで、やっと駆け込んだ便所の戸が閉まっていて、いくらノックしても返答がなく、いよいよ門の辺りに顔を覗かせるかという苦痛に迫られたときは、戸を壊すかもしれません。
結局はみんないい人になってしまう
だから、いつでも漏れそうなんだと思って、その時に自分はどういう行動に出るかと予想して、そのうえで反省するのがよりよい反省なのかなと考えています。結果的に想像上の自分はいつも悪人になるんですよね。
対人もそうで、自分が究極の苦痛に見舞われたときに、横にいる嫌いな人はどんな行動に出るのかと予想して接するのがいいと思っています。大概の嫌いな人は、想像上でちゃんと助けてくれるんですよね。結局はみんないい人になってしまうわけです。自分は悪人なのにですよ。これが、想像するだけで嫌いな人にちょっと優しくなれるイメトレだと考えています。
このお題は、まさに「怨憎会苦」の問題ですねえ。哲夫さんの言うとおり、八苦の中の1つです。八苦に代表されるような根源的な苦は、生きている限り必ず出会うものなのです。怨憎会苦も避けられません。自分の好きな人ばかりに囲まれて一生を送る人はいません。大なり小なり、誰もが好きでもない人と付き合いながら暮らしています。
好きになれない人との付き合いですが、例えば『論語』に「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」(子路第十三)という言葉があります。「立派な人は、周囲との和を保ちながら、けっして付和雷同はしない。器の小さな人は、付和雷同しながら、周囲との和が保てない」といった意味です。
「和して同ぜず」とは、なかなか味わい深い言葉ですね。安易に同調はしないし、意見も言うし、議論もするけど、争いはしません、協働していきます、そんな内容の言葉です。儒教というのは社会実践について深い思想をもっていますので、こういう視点の言葉が多くておもしろいです。