「暴力」が学校では「容認」されるおぞましい実態 指導の現場でなぜ暴力がなくならないのか?

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学校の部活という空間であれば「暴力容認」なのか? 筆者はまったく納得できない。

学校だから許されるというのは今の時代にはそぐわない考え方です(筆者撮影)

学校以外のほかの場所で、大人が高校生に失神するまで暴力をふるったら、警察に通報され、加害者は逮捕されるだろう。

そして暴力をふるった理由のいかんを問わず、その大人は名前を公表され、暴行罪、暴行傷害罪などの罪に問われるだろう。仕事を持っていれば、解雇されるなど、社会的制裁を受けるはずだ。

しかし、学校という枠の中では「暴力」は「体罰」という言葉にすり替えられ、暴力をふるった当事者も、それを看過した管理責任者も教育委員会内部での処分にとどまり、刑事罰を受けることはない。

尼崎市の稲村和美市長は、学校側が事件を隠蔽したことを厳しく叱責するとともに、暴力行為そのものを「暴行事件というより傷害事件。学校外で同様のことがあれば即逮捕というか傷害罪。そのように認識している」とコメントした。まっとうな市民感覚とはこういうものだろう。

日本は民主主義国家であり、国民の人権は日本国憲法によって保障されている。しかし日本国内にありながら「学校」という特別の枠に入ってしまうと、人権の保障は限定的になり、場合によっては暴力をふるわれても加害者が法的に処罰されない事態が起こりうるのだ。このダブルスタンダードは、かなり恐ろしい。

課外活動とはいえ、学校の部活は言うまでもなく「教育の一環」だ。部活を管理監督する教師、指導者に第1に求められるのは「生徒の生命、安全を守る」ことだ。そのうえで、技術の習得や心身の鍛錬などの指導を行うもののはずだ。

しかるに、一部の部活では「生命、安全を守る」はずの指導者が生徒に暴力やパワハラを加えている。「教育」の名の下に、生徒の人権が侵害されているのだ。

熱心さの延長線上に「暴力」はない

日本では暴力やパワハラなどで謹慎処分となった指導者に、卒業生や父母などが赦免を求めて「嘆願書」や「署名」を出すことがよくある。

「あの先生は、熱意のあまり手が出てしまっただけだ」

「生徒のことを誰よりも考えているから殴るのだ」

こうした「情」に訴える声が、事態の本質を見失わせる。これらの請願によって指導者の中には「暴力」「人権侵害」という深刻な行為への反省を十分にしないままに現場復帰してしまう人もいるのだ。

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