しかし國保監督は、佐々木が右ひじに異状を訴えたこともあって、そこから思いを新たにし、以後は佐々木の未来も考えるようになった。そこで踏みとどまることができた國保監督の決断には、一定の評価はできると思う。
「球数制限」があれば苦渋のドラマは起きていない
端的に言えば100球までという「球数制限」が導入されていたならば、こんな苦渋のドラマは起こっていないのだ。佐々木朗希も、立田将太も、100球が来たらなんのわだかまりもなく降板する。それがルールなのだから。2番手投手は試合を壊すかもしれないが、勝負は水物だ。また異なるドラマに転がっていった可能性だってあったのだ。
佐々木だけが目立っているが、今夏の地方大会でも、金足農(秋田)の1年生、山形琉唯(233球)、高知高専(高知)・岩室響(234球)、高知東・島田龍二(188球)など、世界中のどのレベルの野球でもありえないような球数を投げる高校生がたくさん出ている。
投手の健康を優先しなければ、勝ち進んだときに連投でも平気で投げさせてしまうだろう。その結果として「球数制限」があれば防げた「投げすぎ」がいたるところで見られることになるのだ。
韓国や台湾などと比べても高校野球で「球数制限」を導入せず、投げ放題なのは、日本だけという事実もある。
高校野球は「煮詰まっている」。
「選手の未来」か「甲子園の伝統か」の二者択一で、対峙したまま動いていない。その間にも、つぶれる投手が出てくる。大人たちの「千日評定」の被害者は、高校球児なのだ。
(文中一部敬称略)
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