「相田みつを」に学ぶ、正解なき時代の生き方 つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの

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30歳で「自分の書」「自分の言葉」を探求すると決めた

彼の作品は、過酷な人生の体験を経て生まれたものだ。

生まれたのは、昭和直前の1924年(大正13年)。彼の原体験は、戦争である。貧しい中、進学せずに働いて学費を工面してくれた兄2人は戦死した。相田みつをも、兵隊として戦地に赴くことになっていたが、まさにその直前、終戦を迎えた。あと少し終戦が遅ければ自分は確実に死んでいた。そこから「生かされている」という考えが、自分の根本となった。

前出のように、書については20代にして、全国コンクールで優勝、将来を約束されるほどの腕だった。だが、極端な言い方をすれば、それは「古典を書き写すだけの、専門家にしかわからない世界」。そんな「閉鎖的な環境」に留まる生き方が、死んだ兄たちに誇れる生き方なのか、自問自答した。

「生かされている人生を、どう生きるか」を突き詰めた結果、誰のまねでもない、自分の書、自分の言葉を探究すると決めたのは、30歳の頃だった。

極貧の中でも、妥協せず「プロ」を貫いた

しかし、そんな生き方が世間からの理解を得られるはずもない。当然のように、変人扱いされた。それでも、「プロ」であることにこだわり続けた。

時々個展を開き、書を売ることはあっても、それ以外の副業は一切しなかった(しかも、独創的すぎる作風ゆえ、ほとんど売れなかった)ため、生活は困窮を極めた。家族全員が8畳一間で暮らし、失敗作の紙で風呂を沸かすほどだった。
だが、どれだけ貧しくても、「書」についてだけは一切妥協をしなかった。なぜなら「プロ」だからだ。

家族は8畳一間で暮らしたが、他は全て切り詰めてでも、書のためには30畳のアトリエを構え、道具も最高のものにこだわった。親せきが、「せめて30畳のアトリエを20畳にして、10畳を家族のために使え」と言っても全く聞く耳を持たなかったという。「優先順位がとにかく明確で純粋な人だった。もし、家族のためにアトリエを縮めていたらきっと作品は今残っていないでしょうね(笑)」とは、献身的に支え続けた奥様である、千江さんのお言葉だ。

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